「鎌倉殿の13人」ネット放心 義時毒殺説の“真相”時代考証・木下竜馬氏が解説!衝撃ラスト「目が点」

[ 2022年12月19日 11:00 ]

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」最終回(第48話)。床にこぼれた毒消し薬を舐めようと、這いつくばる北条義時(小栗旬)(C)NHK
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 脚本・三谷幸喜氏(61)と主演・小栗旬(39)がタッグを組み、視聴者に驚きをもたらし続けたNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」(日曜後8・00)は18日、最終回(第48回)を迎え、完結した。主人公・北条義時の最期を大河史に刻み込んだ衝撃的なラストシーンに、SNS上は放心&号泣。ドラマの時代考証の一翼を担う東京大学史料編纂所助教の木下竜馬氏が“謎に包まれた義時の最期”を解説する。

 <※以下、ネタバレ有>

 大河ドラマ61作目。タイトルの「鎌倉殿」とは、鎌倉幕府将軍のこと。主人公は鎌倉幕府2代執権・北条義時。鎌倉幕府初代将軍・源頼朝にすべてを学び、武士の世を盤石にした男。野心とは無縁だった若者は、いかにして武士の頂点に上り詰めたのか。三谷氏は2004年「新選組!」、16年「真田丸」に続く6年ぶり3作目の大河脚本。小栗は大河出演8作目にして初主演に挑んだ。

 最終回は「報いの時」。北条義時(小栗)は北条泰時(坂口健太郎)を鎌倉勢の総大将に据え、朝廷との“最終決戦”「承久の乱」(1221年、承久3年)に勝利。後鳥羽上皇(尾上松也)を隠岐島へ流罪とした。

 3年後の元仁元年(1224年)、義時は不意に昏倒。京の知り合いが送ってきたという「薬草を煎じたもの」を、のえ(菊地凛子)に勧められて飲むが、体調は次第に悪化。政子(小池栄子)に看取られ、波乱の生涯に幕を閉じた。

 享年62。義時の最期には諸説あるが、主なものは(1)体調不良(2)急死(3)毒殺(4)家臣に殺害された、の4つ。

(1)は鎌倉幕府が編纂した公式の史書「吾妻鏡」の元仁元年(1224年)の記事に「辰の刻に前奥州(北条)義時が病気になった。このところ御体調を崩していたが特別なことはなかった。しかし今度はすでに危篤である」(6月12日)「(前略)(義時は)今日の寅の刻に出家され、巳の刻(あるいは辰の刻とするか)にとうとう亡くなられた(御年は六十二歳)。このところ脚気の上に霍乱(かくらん=暑気あたりによって起きる諸病の総称)が重なっていたという」(6月13日)(吉川弘文館「現代語訳 吾妻鏡」より)とある。

 「吾妻鏡」は三谷氏が「これが原作のつもりで書いている」と語ったもの。成立は鎌倉時代末期の13世紀末から14世紀初頭とされ、治承4年(1180年)の「以仁王の乱」以降、鎌倉幕府の歴史が記されている。なお、時代考証の会議にはプロデューサー陣が参加。時代考証チーム(坂井孝一氏・長村祥知氏・木下氏)と三谷氏の直接のやり取りはない。

 (2)は公家の日記などを抜粋・編集した史書「百練抄」に記載。成立は13世紀末頃とされる。

 (3)は義時の3番目の妻・伊賀の方(ドラマはのえ)に毒殺されたと、藤原定家の日記「明月記」に記載。18歳の治承4年(1180年)から74歳の嘉禎元年(1235年)まで、約半世紀にわたる克明な記録。

 (4)は史書「保暦間記」に記載があるが「荒唐無稽な説」(木下氏)。成立は14世紀半ばとされる。

 木下氏は「正直、どの説も決め手はありません」とした上で「気になるのは毒殺説。4つの説の根拠となる文献のうち、『明月記』が最も同時代の記録なんですよね。義時がこの世を去ってから、3年後に書き留められています」と安貞元年(1227年)6月11日の日記を読み解く。

 「後鳥羽上皇の側近だった僧侶・尊長法印(そんちょうほういん)が、承久の乱の後に逃げ回っていたんですが、6年の潜伏の末に捕まります。六波羅探題で取り調べを受けている最中、『義時の妻が使った毒薬で自分を殺せ』と暴露したというんです。尊長の父は公家の一条能保。ドラマの中で大姫(南沙良)との縁談を勧められた一条高能(木戸邑弥)の父も能保で、尊長と高能は異母兄弟になります。一条家は後鳥羽上皇と鎌倉幕府、両方に仕える有力な一族で、その出身の尊長も幕府とのコネクションがあるから、あながち鎌倉の情勢を何も知らない人でもない。ただ、そんな人であっても処刑される直前に本当のことを言うかは疑問です」

 木下氏は尊長の発言の真偽より、毒殺というスキャンダラスな噂の“語られ方”に重要性を見いだした。

 「尊長の発言を裏付ける事実はないので、毒殺説の真相は藪の中。ただ、義時は幕府で粛清を繰り返し、朝敵となった末に後鳥羽上皇を倒して隠岐島へ流罪とした。そんな義時は普通の死に方をしない、義時の最期には何か裏があるんじゃないか、いやあってほしいと同時代の人々は期待していたんじゃないでしょうか。定家が記録するぐらい、当時の京でスキャンダラスな噂として毒殺説が流れたという現象が面白いと思うんです。義時は毒殺されてもおかしくないほどの悪事をしてきた、という同時代の共通認識があったから、この噂が現在まで語り継がれているんじゃないかと思います。私自身は普通の病死とする説の方が穏当だと思いますが、視点を変えると、まともな死に方をしないと同時代の人々に思われていたこと、そういう語られ方が興味深いですよね」と展開した。

 今作の源頼朝(大泉洋)の最期も「落馬説+糖尿病説」だったように「義時の最期も三谷さんが諸説をミックスされ、何か報いがあったんじゃないかという当時のムードも生かされている。ラストも流石の作劇だと思いました」と感嘆した。

 義時への歴史学的な評価は「悪逆非道の人」から「受け身の人」に変化してきた。

 「江戸時代の儒教的価値観だと、源実朝を暗殺したのも義時とされ、昔は権謀術数ばかりの大悪人のイメージ。それが今は研究が進んで、全部が全部、義時の責任じゃなく、時には北条時政が原因だったり、様々な状況が絡み合って、やむを得ない面もあったんじゃないか、と。ドラマはその両方が合わさっていますよね。前半の小四郎は状況に振り回されて右往左往しながら、頼朝のやり方を目の当たりにしている。後半の義時は従来のイメージ。『吾妻鏡』だと、義時は割と無個性な書かれ方。それが江戸時代に大悪人となって、戦後も続いていたんですが、一度、その評価を取っ払ってみようと、現代的な歴史学のアプローチの結果、評価が受け身の人に変わってきました」

 政子が“引導“を渡すラストシーンには「脚本初稿を読んで、私も目が点になりました。こんな終わり方なのか、と思わずプロデューサーさんに連絡してしまったぐらいです(笑)」と驚き。「ただ、頼家暗殺については、客観的に見て義時を弁護しようがありません。そういう意味で、頼家暗殺が最後まで義時に重くのしかかってくる今作のラストは、非常に興味深いものがありました」と見解を示した。

 頼家の最期は「吾妻鏡」の元久元年(1204年)7月19日の記事に「酉の刻に伊豆国の飛脚が(鎌倉に)到着した。『昨日十八日に左金吾禅閤(源頼家)(年は二十三歳)が当国の修禅寺で亡くなられました』と申したという」(吉川弘文館「現代語訳 吾妻鏡」より)と、わずかに記されるのみ。

 「将軍を幽閉し、殺害するというのは鎌倉幕府最大の汚点にしてタブーなので、『吾妻鏡』もノータッチ。ただ、ドラマのように政子が頼家の死の真相を知らなかったかどうか、時代考証チームの中でも意見が分かれるんです(笑)。当時の政子の指導力を考えると、少なくとも頼家の死は黙認していたんじゃないかと私は思います。政子が『悪女』と言われるのも、女性なのに政をしているという江戸時代の儒教的価値観から。先の義時と同じで、今はそれでも政子にも汲むべき事情があったんじゃないかと、評価が相対化されています。劇中、『私は身内を追いやって尼将軍に上り詰めた稀代の悪女』という政子の台詞がありましたが、今作の政子は悪女としては描かれていません。『13人の合議制』についても、三谷さんは旧説(頼家=暗君→13人の合議制=頼家の政治関与を排除するシステム)と新説(訴訟の取次は13人に限るが、最終判断は頼家が行う)をぶつけて、ドラマに緊張感を出されていました。政子についても、最新の研究による相対化された評価と、従来の『悪女』のイメージを二重構造にして表現されています。これは歴史に深い理解がないと、無理な芸当です。あらためて感服しました」

 ◇木下 竜馬(きのした・りょうま)1987年、東京都生まれ。東京大学史料編纂所助教。専門は中世法制史、鎌倉幕府。共著に「鎌倉幕府と室町幕府―最新研究でわかった実像―」(光文社新書)など。

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