気がつけば40年(7)広岡管理野球に反発しながら優勝の美酒で覚醒した田淵幸一

[ 2020年8月11日 08:00 ]

田淵が長嶋茂雄の通算444号に並んだ1983年5月27日付スポニチ東京版)
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 【永瀬郷太郎のGOOD LUCK!】担当が巨人から西武に代わった1983年1月10日夜、先輩に連れられて東京・世田谷区上馬の広岡達朗監督の自宅へあいさつに行った。

 神奈川県大和市の相模カンツリー倶楽部で行われた「ニッサン杯争奪プロ野球人ゴルフ」「日産自動車、スポニチ共催)の取材を終えての訪問。近くの酒屋でオールドパーを買って手土産にした。

 広岡さんはちょうど軽めの夕食を終えたところで、これからウイスキーのお湯割りにするという。先輩から「早く酔って地を出せ」と耳打ちされ、私も同じものをいただいた。

 会話は弾まず、先輩が「カラオケでもやりましょうか」と言い出して私が1番手で歌うことになった。広岡家にはカラオケセットがあったのである。

 私が選んだのはサザンオールスターズの「チャコの海岸物語」。歌い出すと、広岡さんは応接間の隅でなんとゴルフのパターの練習を始めた。最後まで歌いきると、広岡さんは言った。

 「ありゃあ紅白をバカにしとる」

 しまった。選曲ミスだった。広岡さんは前年、監督就任1年目の西武を日本一に導いて大晦日のNHK紅白歌合戦に審査員として招かれた。桑田佳祐が三波春夫の真似をしてこの歌を歌うのを目の前で聞き、眉をひそめていたのである。

 もはや、交わす言葉もなくて…。

 ウイスキーのお湯割りが一気に回った。ネクタイを緩め、ソファーに体を沈めたところから記憶がない。広岡さんは「ウチに来て寝たヤツは初めてじゃ」と言ったそうだ。

 こんな形でスタートした西武担当1年目。気になった選手は田淵幸一だった。チームメートから「おっさん」と呼ばれる36歳の主砲。軽く振っているように見えるのに、打球は高く舞い上がってなかなか落ちてこない。これが「天性のホームランアーチスト」たるゆえんかと思った。

 阪神で藤村富美男、村山実に次ぐ「ミスタータイガース」と呼ばれながら、1978年オフ、ライオンズを買収した西武に出された。1980年には43本塁打を放ったが、1981年は右膝を痛めてプロ入り最低の15本塁打に終わった。

 出直しのシーズンにやってきたのが広岡監督だった。キャンプの食事は玄米、食前のビールもご法度の管理野球。ミーティングでは「DHの選手がチーム最高の給料を取っているのはおかしい。打って守って走ってこそ一人前の選手なんです」と言われた。

 一念発起して高知・春野キャンプでは練習の比重を守備7、打撃3に置いたが、4番・一塁で起用されたのは開幕から7試合。すぐDHに回され、やがてスタメンから外されるようになった。

 体重を94キロから88キロまで急激に落とし「集中力がなくなった」とこぼすと、新聞に「田淵は甘えているんですよ。太りたいんだったら100キロでも200キロでもなりゃあいいんですよ」というコメントが載った。

 「もうこの人にはついていけない。代打要員でいいから巨人でプレーできないか…」

 そう考え始めていたときに運命の試合がやってくる。パ・リーグの前後期制最終年。6試合を残し首位阪急(現オリックス)に0・5ゲーム差で迎えた6月20日、南海(現ソフトバンク)とのダブルヘッダー(大阪)第1試合だった。

 3―4の9回。先頭の代打・立花義家が三塁打を放った直後、代打に指名された。ベンチを出た瞬間はそうでもなかったが、打席に入ると背中に電流が走った。カウント2―2から金城基泰のカーブを叩くと、左翼席へ飛び込む逆転15号2ラン。まさに起死回生の一発となった。

 広岡監督の名言がある。

 「大田(卓司)が打つとベンチが盛り上がる。田淵が打つとベンチのみんなが喜ぶ」

 チームのシンボル「おっさん」の逆転弾を喜んだ西武はそのまま逃げ切り、第2試合も勝って首位奪還。勢いに乗って前期優勝を果たした。日本ハムとのプレーオフ、中日との日本シリーズも制して日本一。田淵はプロ野球人生初めての美酒に酔い、広岡監督のやり方が間違っていなかったことを知る。

 さらに打率・218、25本塁打、59打点の成績ながら年俸が3100万円から4200万円へアップ。当時としては破格の昇給で二重の喜びを味わった。私が西武担当になったのは、意識革命が完了したときだった。

 1983年5月26日、阪急戦(西宮)の5回、左腕・木下智彦の外角球を捉えると、打球はバックスクリーン左に舞い降りた。3試合連続の14号は通算444号。長嶋茂雄の持つ大卒選手の最多本塁打記録(当時)に並んだ。

 そして2日後、28日の南海戦(大阪)で山内孝徳から左翼席へ15号アーチを架け、通算445号。長嶋を抜いた。(特別編集委員)

 ◆永瀬 郷太郎(ながせ・ごうたろう)1955年9月生まれの64歳。岡山市出身。80年スポーツニッポン新聞東京本社入社。82年から野球担当記者を続けている。還暦イヤーから学生時代の仲間とバンドをやっているが、今年はコロナ禍で活動していない。

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