ドサ回りで開いた扉 ロックスター矢沢永吉は日比谷野音で誕生した

[ 2022年7月5日 11:30 ]

矢沢の金言(4)

伝説のキャロル解散から1年余。再び日比谷野音の大観衆を熱狂させ、新たな伝説をつくった矢沢永吉
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 矢沢永吉は一気に成りあがった成功者とのイメージを持つ人も多いが、一足飛びにスターの階段を上り詰めたわけではない。

 最初の「散々な目」を象徴したのが、観客が前列しかいなかった佐世保公演。矢沢は「リメンバー佐世保」のスローガンを掲げ、翌76年4月から新たに全国津々浦々を縦断する9カ月間のツアーを敢行。ヒートアップした観客が警備員とケンカになるなど熱狂的な状況に「矢沢のライブは危ない」と使用拒否する会場も出てくるなど、こうした評判も含めて矢沢の名前は全国にとどろいていった。

 当初ファンからそっぽを向かれたのは、キャロルではできなかったことを追い求め、ソロシンガーとして新たな扉を開こうとしたため。そのライブの落とし前をライブでつけようとするのが矢沢ならではで、この選択が本来の「反骨」むき出しのロックをよみがえらせ、さらにバラードでも酔わせる新たなスタイルによって、それまでの日本にはいなかった“ロックスター”が誕生した。

 その瞬間がキャロルの象徴だった日比谷野外音楽堂で、最大収容3100人の会場に7000人近くが詰めかけた。絶望的な挫折からわずか半年で栄光への新たな扉を開いたのは、4トン半のトラックに機材を載せて地方の町から町へ渡ったライブツアーのたまもの。矢沢は「全国どこへでも行った。楽屋がなくて近所の駄菓子屋で着替えたこともあった。だから、矢沢永吉はこのドサ回りで生まれたのよ」と言う。

 今から8年前。矢沢が若手とバンドを組み、苫小牧、帯広など北海道だけで地方4カ所を巡ったことがある。釧路公演後、楽屋で会うと「今日ちょっと空席があった。チキショー!」と叫んだ上で「これよ、これ。大都市のビッグな会場だけでやってると、これに気付かないのよ。クーッ、たまんないね。俺まだやれるよ」と燃えまくったのだ。

 ほぼ満席の中、売れ残りがあったと自分から明かすアーティストはいないし、空席があった事実を喜ぶ人はもっといない。だが、この思考こそが今も現役でいる原動力であり、今も「反骨のロック」を体現し続けている源泉だろう。

 今回の名言は人生で必ず訪れる挫折に落ち込まず、上を目指してリベンジしていけという若者へのメッセージだ。だから最後は安心できる境地の「余裕」であり、4度目があっても「感謝」だった。決して「満足」の2文字は出てこない。矢沢が72歳になった今も現役で戦える理由は、そこにある。

 《キャロル伝説“炎の解散”》矢沢の野音凱旋ライブの成功は、日比谷野外音楽堂が「日本のロックの聖地」と呼ばれるようになる決定打となった。

 同所の歴史は古く、初代の日比谷公園大音楽堂ができたのが1923年(大12)。54年(昭29)に改築し、現在の3代目が完成したのが83年。最初の野音伝説は75年4月のキャロル解散公演で、終演間際に特殊効果の爆竹の残り火が舞台上で燃え移り「CAROL」の電飾が炎上。崩れ落ちていく様子が燃え尽きた彼らを象徴した。

 その矢沢が舞い戻った野音で新たな伝説をつくったインパクトは大きく、翌年にキャンディーズが「私たち解散します」と公演中に宣言。84年の故尾崎豊さんは高さ7メートルの照明から飛び降り骨折しながらも歌い続け、伝説となった。現在は女性ロッカーによる「NAONのYAON」が35年間続いている。

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