矢沢永吉「最初、散々な目に遭う。2度目、オトシマエをつける。3度目、余裕」 そして4度目は…

[ 2022年7月5日 11:30 ]

矢沢の金言(4)

日比谷野音の楽屋でタバコを吸いながらオトシマエに燃える矢沢永吉。ムラが味わい深い星形模様のTシャツはスターになる決意の象徴。自分で厚紙を星形に切り、白いシャツの上に置いて銀色のスプレーを吹きつけ作った自家製だ
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 デビュー50周年を迎えた日本ロック史上最大のスター、矢沢永吉(72)が激動の人生を自らの語録で振り返る大型連載「YAZAWA’S MAXIM 矢沢の金言」(毎週火曜日掲載)。第4回はソロデビュー直後、コテンパンに打ちのめされた屈辱がきっかけで生まれた名言。人生は誰しも挫折の連続。そのたびに乗り越えてきた矢沢だからこその至言です。(構成・阿部 公輔)

 「最初、散々な目に遭う。2度目、オトシマエをつける。3度目、余裕」

 バンド「キャロル」の解散から5カ月後の1975年9月末。ソロデビューの全国ツアーを京都会館からスタートした。でも半年前まで完売だったチケットが全く売れない。ラメの服着てバラード歌う姿に客も驚いたんだね。メタクソ言われて。ラストの東京公演、中野サンプラザ(76年1月)もブーイングが起こる屈辱だった。

 中でも忘れられないのが長崎の佐世保市民会館(75年10月)。収容1500人くらいで売れたチケットはたったの100枚。しかも当日は雨ザンザン降りでスタッフがタダ券ばらまいてやっと200人ちょっと。悲惨ですよ。雨ん中、タダ券とチラシまいたスタッフにも申し訳なくて。普通はここで完全に心折れるよね。

 でも、本番。前列しかいない観客に「今日のことは絶対に忘れない。今この場で約束する。俺、日本一になるから」と誓った。この挫折を忘れずに翌年4月からのツアーで街から街へ、全国に片っ端からオトシマエをつけに行った。

 その象徴となったのが、キャロルの解散公演を行った日比谷野音での凱旋ライブ(76年7月)。同じ東京公演の中野のオトシマエで、ソロになって初の野音。観客に「帰ってきたぞー!」って叫んだのは、この場所に戻ってきたという意味だけじゃなく、オトシマエつけたぞって思いがあった。「最初、散々な目に…」って言葉はね、自分にそう言い聞かせてきたんですよ。そうじゃないと、人生は挫折の連続ですから。

 あれから45年。僕みたいに現場でナマでお客さんに伝えてきたライブに本気で強いアーティストと、そうじゃない人との違いがはっきり見えてきて、そこに絶対的な価値がないとダメなんだ!そんな新たな時代に音楽界は入っています。

 不思議な気持ちですよ。だって、キャロル時代にTBS「ぎんざNOW!」の楽屋で暴れるなど生意気だったんでテレビに出入り禁止になって、街から街へ行くしかなくて、それで全国区になったわけですから。確信あって始めたんじゃない。結果的にそっちしかなかったゆえのドサ回りでしたから。自分の手の中で感じたものを信じて突き進んだのもあります。でも偶然や運も大きかったと思う。

 そんな矢沢の50周年ツアー。僕が73歳になって迎える福岡PayPayドームのチケットが早くも完売しました。「3度目、余裕」の後に続けるなら「4度目、感謝」だね。

 去年もコロナ下で31本のライブをやりました。最初は厳しい規制があったけど、最後の横浜アリーナ。1万人突破の“超満”でした。昔から分かってはいたけど。矢沢のことをアニキーッ!て支持してくれてきたみんながどんだけ濃いヤツらかは…。確かに分かってはいたけど、横浜で改めて確信したのよ。俺のファンってホントに熱い!と。ヒット曲飛ばしてテレビにボコボコ出たのを見てファンになりましたっていうのと違うのよ。

 街から街へのライブで出会い、毎年迎え撃ってきたマジでナマの関係ですから。「矢沢と一緒に生きてきた」っていうものを持ってるんだね。そしたら泣けてきちゃって。最後の歌ってる途中でね。

 この年齢になっても今も変わらず熱いファンの前で歌える。こんな幸せなことってないですよ。「4度目、サンキュー」。うん、それしかないね。

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