気がつけば40年(21)江川引退報道から正式発表までの騒動と中国バリの先生から聞いた話

[ 2020年10月2日 08:00 ]

スポニチのスクープから4日後、ホテルニューオータニで引退が正式に発表された。1987年11月13日付スポニチ東京版
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 【永瀬郷太郎のGOOD LUCK!】記者生活40年を振り返るシリーズ。今回は1987年11月8日付1面で江川引退を打ってから12日に正式発表されるまでの4日間と引退会見の余波について書きたい。

 「江川引退決意」の大見出しが躍るスポニチが駅の売店に並んだ朝、私は新宿区弁天町にある正子夫人の実家へ向かった。江川はこの日後楽園球場で行われるファン感謝デーに備え、ここに泊まっていたのである。

 それを知って集まった記者は私を入れて3人。江川は玄関から出てくると「乗っていく?」と車に招き入れてくれた。

 車が大通りに出るのを待って、助手席に座った記者が「後楽園に着いたら囲まれると思うけど、どう答えるの?」と聞いた。

 すると、江川は「否定も肯定もしないよ」と言って後部座席の私に話を振った。

 「永瀬、もしオレが辞めなかったら、おまえはどうなるの?会社クビか?」

 そんなこと考えたことがない。「分かんないよ」と返したけど、江川の話を聞いているうちに誤報になることは絶対ないと思った。

 「11月いっぱいは契約が残っている。30日までとは言わないまでも25日には納会がある。公式行事がすべて終わるまでは何も言えないよ」

 前日の電話で私に「もし会ってもオレが本当のことをしゃべるわけないだろう」と漏らしたのと一緒。引退を決めているから何も言えないのだ。

 後楽園に着いて大勢の報道陣に囲まれても車内で話していたように否定も肯定もしなかった。イベント後も「引退するかやるか2つに1つ。とにかく納会が終わるまでは言えません。気持ち?もう決めています」と言って球場を後にした。

 江川は西武との日本シリーズ直前、ある球団幹部に引退の意思を伝えていた。王貞治監督には11月1日、2勝4敗で敗れたシリーズ第6戦終了後に立川市内の宿舎で直接伝えた。

 しかし、球団としては、13勝5敗の成績を残したエースの引退をすんなり認めるわけにはいかない。正力亨オーナー、長谷川実雄球団代表らが説得に動いた。

 江川の気持ちを変えるまでにはいたってないが、発表予定日は納会翌日の26日。まだ時間はある。さらに説得を続けようとしていた矢先に引退報道が出たのである。

 ここから先は江川の車に同乗させてもらうなんてできない。朝から晩までカーチェイス。江川の行く先々を黒塗りのハイヤーで追いかけた。

 江川は9日、神奈川県茅ヶ崎市のスリーハンドレッッドクラブで行われたゴルフコンペで同席した王監督に改めて気持ちを伝え、11日には九段のホテルグランドパレスで長谷川代表、王監督から最後の説得を受けた。

 王監督からは「ローテーションを中5日でやってきたが、それで無理というのなら中1週間、中10日でもいい」と言われたが、意思が揺らぐことはなかった。

 12日、紀尾井町のホテルニューオータニで行われた引退発表会見。江川はとうとうと語り始めた。

 「あの試合で江川卓の野球が終わったんです」

 小早川毅彦に逆転サヨナラ2ランを打たれて初めて人前で涙を流した9月20日の広島戦(広島)である。これは問題ない。この後の発言が大きな波紋を呼ぶことになる。

 「中国バリの先生に言われたんです。“残された道は肩甲骨に打つしかない。しかし、打てば来年はもう投げられない”と」

 広島戦を前にして右肩の状態は最悪だったが、優勝を争う大事な試合の登板を回避することはできない。投手生命を賭して禁断のツボにハリを打ち、玉砕したというストーリーである。

 私も思わず引き込まれたが、のちに鍼灸医の団体から「そんなツボはない」と抗議を受けることになる。

 たしかにおかしな話だ。江川は広島戦から中6日で先発した27日の阪神戦(後楽園)は7回5安打1失点で13勝目を挙げ、10月8日のヤクルト戦(同)も7回5安打2失点にまとめている。

 現役最後の登板となった10月28日の日本シリーズ第3戦(同)も8回4安打。ジョージ・ブコビッチと石毛宏典にホームランを許し、1―2で敗れたが、内容は悪くなかった。第7戦にもつれ込めば再び先発する予定だった。

 騒動が収まってしばらくして江川から都内の中華料理店に招待された。中国バリの先生も一緒だった。賈露茜さんという中国人の女医である。打ったご本人に聞くのが一番。「禁断のツボ」についてたずねた。

 「私もテレビを見ていてビックリしたよ。おかしなこと言うと思ったね。そんなツボないよ」

 これでは江川もごり押しはできない。素直に非を認め、鍼灸医の団体に謝罪するしかなかった。

 「空白の一日」から始まった入団時が入団時だったから、辞めるときはきれいにユニホームを脱ぎたかったらしい。最後も大騒動になったのは怪物の宿命か。(特別編集委員)

 ◆永瀬 郷太郎(ながせ・ごうたろう)1955年9月生まれの65歳。岡山市出身。80年スポーツニッポン新聞東京本社入社。82年から野球担当記者を続けている。還暦イヤーから学生時代の仲間とバンドをやっているが、今年はコロナ禍でライブの予定が立っていない。

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