【内田雅也の追球】「わが子」へのやさしさ 生誕100年記念試合でよみがえった闘将・西本幸雄の魂

[ 2020年10月2日 07:45 ]

パ・リーグ   オリックス6-7西武 ( 2020年10月1日    京セラドーム )

東京・和泉の自宅でくつろぐ西本幸雄氏の家族。左から妻・和子さん、次女・都さん、長女・由実さん。大毎監督に就任した1959年11月ごろとみられる=遺族提供=
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 西本幸雄が暮らした宝塚の家は2011年の没後、次女・松永都(63)が夫婦で住んでいる。「父が大切にしていたから」と応接間に茶色のつぼがある。かつての阪急オーナー・小林米三から贈られたものだ。

 阪急が球団創立32年目で初優勝をした1967(昭和42)年10月1日、胴上げを下りた西本が西京極球場ネット裏にいたオーナーに駆け寄り、網越しに指で握手をした。

 前年10月、有名な信任投票事件で辞意を伝えた西本を「阪急の監督は西本しかおらん」と慰留を命じたオーナーである。

 その初優勝記念日に行われた西本生誕100年のメモリアルゲームだった。都や長女・大家由実(69)ら遺族11人が招待されていた。

 都は試合前、球団の許可を得てグラウンドに足を踏み入れた。「初めてですよ。昔だと考えられない」。父にとっての戦場だった。

 特別始球式では、西本の孫、由実の長男、大家正弘(38)が登板した。正弘は6歳のころ、1988年7月26日、東京ドームで行われた西本の野球殿堂入り表彰式で一緒に行進している。それ以来のグラウンドだった。幼いころ、宝塚の庭で祖父とボール遊びをした思い出がある。

 オリックス全員が当時のユニホームをまとい、西本の背番号「50」をつけていた。試合前やラッキーセブンには阪急応援歌が流された。スタンドにいた阪急OBやオールドファン同様に、都も懐かしんだ。「父も喜んでいるでしょう。ひょっとすると、ここに来ているんじゃないかな」

 西本は家庭に一切、野球を持ち込まなかった。娘たちにとって、父の思い出はやさしいものばかりだ。

 大毎(現ロッテ)時代、一家は東京・杉並区和泉で暮らしていた。麦わら帽に長靴といういでたちで電車を乗り継いで多摩川まで行き、小石を拾い絵を描いてくれた。木でピストルや車のおもちゃを作ってくれた。
 後年、父から「初めての子で厳しくあたった」と明かされた由実は「怖かったけど」と父のやさしさを忘れない。深夜に帰宅した父はよく、寝ている由実にふとんをかぶせ、整えてくれていた。「何て言うのかな……あったかかった」

 厳しくて怖いが、やさしくて温かい。それは大毎、阪急、近鉄での教え子たちが皆、口をそろえる言葉だ。この日、顔をそろえた山田久志、福本豊、加藤秀司……らも「おやじ」と慕った。西本は選手について「親御さんの掌中の玉を預かったんや。一人前にするのがオレの仕事や」と、文字通りわが子同然に育てていたのだった。

 8度もリーグ優勝しながら日本一になれず「悲運の闘将」と呼ばれた。「何を言う。8回も勝てた。子どもらに恵まれた。オレほど幸運な男はいない」と反論した。

 今のオリックスに西本を直接知る者は少ない。ただ「50」を背負った選手たちは懸命に戦っていた。T―岡田や吉田正尚ら左打者を見れば福本や加藤を、左打ちの巨漢外国人スティーブン・モヤを見ればクラレンス・ジョーンズやチャーリー・マニエルを、右の大型打者・杉本裕太郎を見れば羽田耕一を……連想する。いずれも西本が繰り返し繰り返し、根気と情熱、いや愛情の指導で大成した選手たちである。

 試合には敗れたが、逆転再逆転……の展開は七転八起の西本の人生のようではないか。「50」の精神は時空を超えて引き継がれていた。=敬称略=(編集委員)

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