【岐阜】遠かった1点…大垣商・篠田 川崎憲次郎と史上屈指の投手戦

[ 2018年7月8日 08:00 ]

第70回大会3回戦   大垣商0―1津久見 ( 1988年8月19日    甲子園 )

大垣商・篠田
Photo By スポニチ

 【スポニチ社員が選ぶわが故郷のベストゲーム】この夏、全国高校野球選手権大会は100回目。ふるさとチームの甲子園での活躍に熱くなった記憶を、北北海道から沖縄まで、今夏の代表校数と同じ56人のスポニチ社員がつづります。

 1987年にプロ野球を席巻したヤクルト・ホーナー。その衝撃は岐阜の田舎まで届き、記者は野球に魅せられた。その翌年。細身の高校生が、岐阜の夏の話題をさらうことになる。

 大垣商・篠田淳。岐阜大会で快投に次ぐ快投を見せ、決勝で当時、県内無敵を誇った県岐阜商を1点に封じた。翌日の地元紙は「篠田1人で甲子園に」と書き立てた。友人が地元・中日の快進撃に沸く中で、ヤクルトの低空飛行も手伝い、自分と同じ漢字の名を持つ快腕に引きつけられた。

 甲子園でも快投が続く。1回戦で坂出商を完封し、2回戦で京都西に1失点完投勝利。大きなカーブと小気味いい速球に、その頃には友人たちもテレビにくぎ付けとなった。

 3回戦。近所で集まって観戦した津久見の川崎憲次郎との投げ合いは壮絶を極めた。互いにほとんどヒットも出ない中、均衡が破れたのは4回裏。1死一、三塁のピンチで篠田は打者を三ゴロに打ち取るも、併殺を焦った野手が悪送球し1点を失った。大垣商は8回、果敢に1点を狙った走者が本塁で憤死。1点が遠く、そのまま敗れた。それでも、打ち込まれないまま甲子園を去る篠田の姿はあまりに偉大で、感動の涙を流す友人もいた。

 翌年、川崎はヤクルト入り。記者は何の因果か篠田のライバルをエースと奉ることになった。一方の篠田はダイエー入りも、大成しないまま引退。それでも大垣商は88年以降注目度が高まり、志願入学した中学校の同級生は94年に5番打者として甲子園出場を果たした。史上屈指の投手戦が放った閃光は、それほどにまぶしかった。

 ◆桑原 淳(東京本社文化社会部)岐阜県海津市生まれの41歳。篠田は「じゅん」でこちらは「あつし」。

 <岐阜データ>

夏の出場 65回(通算71勝64敗1分け)

最高成績 優勝1回(岐阜商=1936年)

最多出場 県岐阜商(28)

最多勝利 県岐阜商(39)

出場経験 16校、うち未勝利4校 

続きを表示

この記事のフォト

2018年7月8日のニュース