“怪童”中西太さんが涙した夜「なんでワシより先に逝くんや」 三原脩さん流の指導哲学 担当記者が偲ぶ

[ 2023年5月18日 15:08 ]

<仰木氏殿堂入り>故三原脩氏のレリーフの前で仲良く記念撮影におさまる元近鉄、オリックス監督の仰木彬氏(左)と中西太氏(2004年撮影)
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 中西太さんが亡くなったと聞き、本当に驚いた。先日、テレビで元気な姿を拝見したばかりだったのに。信じられない。

 初めて太さんと会ったのは1989年2月の近鉄キャンプ。プロ野球記者として駆け出しの頃、宮崎県日向市・小倉ケ浜球場で、あの豪快な声を聞いた。太さんが現役時代に西鉄で一緒にプレーした元投手の畑隆幸さん(北九州市在住)が、私の父の高校時代からの友人。畑さんの話をして以来、気安く声をかけていただくようになった。時には「おい、野球経験者。練習を手伝え」とキャッチボールの相手をさせられ、打撃練習の捕手まで務めさせられた。今、考えてみると危険で、考えられないことだが…。

 高松一高時代に“怪童”と呼ばれたことは本で読んでいたし、現役時代の豪快なスイングも、かすかに記憶している。だが、太さんの一番の印象は、とにかく指導者として練習熱心だったということ。言葉で説明し、それ以上に身ぶり手ぶりを交えて教える。箱いっぱい、300球のボールを延々ティー打撃で打たせ、自分でバットを握って手本を見せて…。朝から晩までその繰り返し、繰り返し。体で覚えさせていくスタイルは、ずっと変わらなかった。

 門下生は数多い。目の前で見たのが新井宏昌さん、大石大二郎さん、金村義明さん、石井浩郎さんら。88年に、当時中日の2軍でくすぶっていたラルフ・ブライアントの獲得を球団に進言した。獲得後は連日連夜、みっちり指導。変化球対策として投手にワンバウンドの球を投げさせてタメをつくるなど独特の練習法でホームランバッターに育て上げた。

 その指導方針は「個人の特性、長所を最大限に生かすこと」。太さんは「オヤジがよく言ってたんだよ」と。オヤジとは名将・三原脩さん。太さんの義父にあたる。太さんは三原さんを心から尊敬していた。

 プライベートでは、太さんからワイシャツをいただいたことがある。「お前、首が太いなあ。何センチや?」。「46センチです」。「そうか」との会話の後、「これ、オレのをやる」と何枚もいただいた。太さんの首回りは49センチ。私でも太すぎてブカブカ。「そんなワイシャツあるんだ」と周囲から笑われた。

 97年に甲状腺がんが発覚。手術後、あの大きな体がすごくスリムになって「もう、棺桶に両足を突っ込んどるからなあ」と笑い飛ばしていた。そんな矢先の05年に仰木彬さん、07年に稲尾和久さんと、西鉄時代の“戦友”が相次いで亡くなった。特に、近鉄、オリックスで、コーチとしてそばでサポートしてきた元監督の仰木さんが亡くなった時には「なんでワシよりアンギー(仰木さんの愛称)が先に逝くんや」と涙して、悔しがっていた。

 その後も、球場でお見かけし、あいさつにうかがうと「お前、生きとったか」と体は細くなっても豪快な声で喜んでくださった。元気に過ごされていると聞いていたのに…。ご冥福をお祈りします。(元近鉄、オリックス担当・古野 公喜)

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