【内田雅也の追球】クッション処理で防いだ失点 打撃戦、1点差の1985年型「阪神的」勝利

[ 2020年8月13日 08:00 ]

セ・リーグ   阪神7-6DeNA ( 2020年8月12日    横浜 )

<D・神12>初回1死二、三塁、佐野の右前適時打の打球を失策した中谷(撮影・島崎忠彦)
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 作家・中上健次の命日だった。1992年8月12日、故郷・熊野の海が見える和歌山県那智勝浦町、日比記念病院の病室で逝った。46歳になって10日目だった。

 腎臓がんが転移し、脳や脊髄も侵されていた。高山文彦の評伝『エレクトラ――中上健次の生涯』(文春文庫)にある。

 <なのに、おかしな言動をひとつもとらず、ジャイアンツファンの看護婦には、どんなにタイガースがすばらしいかを話して聞かせ、タイガースファンにひっぱり込もうとしたり、彼女たちの恋愛や結婚の相談にのったりした>。

 中上は熱狂的な阪神ファンだった。反権力の象徴として「阪神的なるもの」を愛したそうだ。阪神ファンとして生涯を全うしたのだった。

 ならば、この夜4回裏の逆転劇はいかにも阪神らしく、泉下の中上も喜んだことだろう。1―3と2点を追い、無死一、二塁から8、9番が続けて送りバントを失敗して2死となった。こうした失敗に沈まず、取り返す反発力も「阪神的」である。

 近本光司が一、二塁間をゴロで破る右前適時打を放ち1点差。さらにプロ初の2番に起用された中谷将大が左翼席に逆転3ランを放ったのだ。中谷は1回裏の右前打処理でミスし(失策)、2点目を献上していた。自らの失敗を自ら取り返してみせたのだった。

 多少の失点は爆発的な攻撃力で取り返した、あの85年に似ていた。当時、中上は雑誌『平凡パンチ』の連載で<すべては阪神である>と書いた。エッセー集『バッファロー・ソルジャー』(福武書店)にある。<阪神ファンは阪神の勝敗は自分の日常の反映だと思っている、いや阪神にとりついたモヤモヤは自分のせいだと思っている。勝てば阪神は地力で勝ったと思うが、敗(ま)ければファンである自分の日頃の行いが悪いせいでこうなったと思っている>。昔も今も変わらぬ、いかにも阪神ファンらしい生活ぶりがうかがえる。

 この夜は9回裏、1点差まで詰め寄られながら逃げ切った。両チーム合わせて24長短打、13得点の打撃戦だが、1点の攻防が明暗を分けたのだ。

 この点で見逃せないのは余計な失点を防いだ阪神の地味な好守である。特に度重なった左翼手のクッションボールの素早い処理を書いておきたい。

 9回裏、1点差となって2死一塁から代打・山下幸輝の左翼フェンスに達する打球に対し、守備固めで左翼に入っていた江越大賀が俊足で素早く到達して拾い、強肩でカットマンの遊撃手ではなく、三塁まで投げた。これで一塁走者の代走・桑原将志の本塁突入を防いだのである。

 江越だけではない。4回裏1死、戸柱恭孝の左翼フェンスへの二塁打性打球にジェリー・サンズがクッションボールを素早く素手で処理、単打にとどめた。おかげで次打者の二ゴロで併殺を奪えた。サンズは1回裏の宮崎敏郎左翼線打球も早い処理だった。

 あの85年も弱い投手力をカバーしていたのは打撃力に加え、安定した守備力だった。左翼手で言えば、佐野仙好が元三塁手の素早い送球が光っていた。外国人で言えば、一塁手ランディ・バースは決して緩慢ではなく、バント処理などで軽快な守備を見せていた。

 つまり、これら目立たぬ好守も中上が狂喜していた85年型阪神と似ていたわけだ。

 9連戦最終戦。雨の横浜での快勝である。甲子園を高校球児に明け渡しての長期ロードはひと休みを迎える。猛虎たちは気分よく、家に帰ることだろう。=敬称略=(編集委員)

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