【内田雅也の追球】「あと1球」から7失点 阪神救援陣の「あと一歩」

[ 2020年7月16日 08:00 ]

セ・リーグ   阪神5-9ヤクルト ( 2020年7月15日    甲子園 )

<神・ヤ(5)> 5回無死、セーフティーバントを決めるガルシア (撮影・平嶋 理子)                                                                
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 阪神目下の課題は救援陣である。救援防御率はセ・リーグ最悪。特に同点や僅差ビハインドで終盤勝負という展開で持ちこたえられない。

 この夜も勝負のかかった7回以降、伊藤和雄、能見篤史、馬場皐輔で失点を重ねた。

 ただし、あと一歩なのは確かである。実際、誰もが「あと1球」だった。

 4―4の7回表に登板の伊藤和は2ストライクといずれも追い込んでから安打、四球、安打で満塁を招いた。能見が浴びた適時打も追い込んでからの直球だった。9回表の馬場皐輔は2死一塁からけん制悪送球の後、四球、そして2人続けてフルカウントから連続適時打を浴びた。

 つまり救援陣が浴びた適時打はすべて2ストライク後の勝負球だった。「あと1球」からの5失点だった。

 そして無失点だった望月惇志も2死二、三塁から2ストライク後、中前へ快打されている。近本光司が前進守備を敷いていたため助かった。

 厳しい勝負の世界である。その「あと1球」の差が大きいのだ、と言ってしまえば、おしまいである。詰めが甘いという言い方もできるだろう。

 だが、能見を除いて若い彼らが苦い経験を糧にすると信じたい。馬場が前夜(14日)、プロ入り初のホールドを記録したように、これまで勝ちパターンや接戦での経験が乏しい彼らが、しびれるような舞台で感じた悔恨こそがやがて血となり肉となる。藤川球児が登録抹消となり、新外国人ジョン・エドワーズも右肩不調でいない。「家貧しくして孝子顕(あらわ)る」といきたい。

 1日で再び落ちた最下位だが、心持ちや見える風景も以前とは異なっている。希望の見えた敗戦である。打線の反発力が希望を呼んでいる。

 そんな試合後半の反撃を呼んだのはオネルキ・ガルシアの激走だろう。1―2の5回裏先頭打者として三塁前にセーフティーバントを仕掛け、一塁に全力で駆けた。間一髪セーフ。足を傷め、トレーナーが駆けつけ、しばらく休んだほどだった。先発投手の勝利にかける闘志がにじみ出た姿に、奮い立たない野手などいない。

 古い野球人は「ピッチャー、ドントラン」と英語で言う。アメリカから持ち込んだ指南書にあった言葉だろう。練習ではもちろん下半身強化で走り込むのだが、試合では投球への影響をかんがみて「投手、走るべからず」と言われた。

 よく例に出されたのが1934(昭和9)年春の選抜大会決勝である。浪華商(現大体大浪商)エースの納家(なや)米吉は0―0の延長10回表、自ら右翼にランニング本塁打して勝ち越した。その後すぐに攻撃は終わった。<できるだけ休息させるように、ベンチも次打者も考えなければならなかった。納家は肩が大きく揺れるほど呼吸が荒れている>。

 毎日新聞の名記者だった松尾俊治が『ああ甲子園 高校野球熱闘史』(スポーツニッポン新聞社出版局=1976年8月発行)に書いている。10回裏先頭から四球、二塁内野安打、右中間二塁打で東邦商(現東邦)に逆転サヨナラ負けを喫した。<ホームランを打って、うれしそうに帰ってきた納家が、わずか数分後、プレートの上でぼう然と打たれた打球の行方をいつまでも見ていた姿が忘れられない>。

 ちなみに、この日7月15日は納家の誕生日だった。1914(大正3)年に生まれている。和歌山・雄(おの)小時代から怪童投手と呼ばれ、浪華商では1年時からエースだった。浪華商から法政大を経て、南海(現ソフトバンク)に入団。すぐに召集され、41年4月6日、フィリピン・バターンで戦死した。26歳の若さだった。

 この夜のガルシアの場合は5回で、攻撃終了後に整備の時間があるのを計算していたのだろう。しかも降雨中断で十分に休息の時間はあった。

 だから快調に6回表も簡単に2死を取った。だが、山崎晃大朗を1ボール―2ストライクと追い込みながら与えた四球が痛かった。直後にボーク、2ランを浴びた。

 つまり、この2点を加えれば、この夜の阪神投手陣は「あと1球」から計7失点したわけだ。教訓的な敗戦である。=敬称略=(編集委員)

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