ジャニーさんが「TOKIO」に込めた熱い思い

[ 2020年7月23日 08:00 ]

ジャニーズ事務所
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 1991年頃だったと思う。ジャニーズ事務所の当時の社長だったジャニー喜多川さんから「面白いことをやっているので一度見に来て下さい」と誘われ、現在の東京ドームシティを訪れた。

 SMAPがCDデビューする前後で、光GENJIの全盛期。ジャニーさんは、ローラースケートを履くトラック競技「ローラーゲーム」に関心を示し、ジャニーズJr.のメンバーたちに実践。この中には後にTOKIOとなるメンバーもいた。

 この頃、ジャニーさんは世界戦略を強く意識し、次に手掛けるグループ名は「日本発」を強調することを明言。海外で最も有名な国内都市は「東京」であり、外国人の発音は「TOKYO」ではなく「TOKIO」だと主張。だから「Y」ではなく「I」にした。

 メンバーの組み合わせにもこだわり、「城」「山」「国」「松」など「和風色が強い漢字」を姓に含む少年たちを集めた。さらに驚かされたのは、ローラースケートを履く「光GENJIの弟分」かと勝手に想像していたら、全員楽器が出来てロックバンド形態だったこと。ジャニーズ勢では、「男闘呼組」以来のバンドデビューとなった。

 CDデビュー日は94年11月2日。当時のジャニーズ事務所のアイドルたちは横浜アリーナを“主戦場”としていたが、TOKIOはバンド色を強調するため「ロックの聖地」の日本武道館でデビューコンサートを行った。開演前、楽屋でメンバーたちを取材。ワイドショー番組の女性リポーターが「ジャニーズ事務所と言えばバク転。楽器もできるなら、当然バク転も?」と質問すると、メンバー全員その場で軽く披露して見せたのを今でも覚えている。やはり運動神経も抜群だったのだ。

 メンバーたちとはアトランタ五輪やタイ・バンコク、台湾など、海外へも取材で出掛けた。国内と違って、オフはゆっくりと話し合うこともできた。社交的な松岡や国分に対し、最年少の長瀬は控えめで遠慮しがち。それでも大好きなエレキギターやロックアーティストの話題を振ると、目を輝かせた。最年長の城島はいつも落ち着いて、30代頃からはプロデュース業など裏方にも興味を示していた。

 それぞれ年齢も違えば、性格も違う。成長するにつれ、考え方や方向性も様々なんだなと感じさせるようになった。今回の決断は「長い時間をかけ様々な話し合いを重ねた結果」だという。独立する長瀬も応援したいし、他の3人にはジャニーさんが強くこだわった「TOKIO」の名を守り抜いて欲しいと願う。(デジタル編集部編集委員 山崎 智彦)

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2020年7月23日のニュース