ジャニーさん おごらず、いばらず、エンタメ向上に夢中の少年そのもの

[ 2019年7月10日 09:45 ]

ジャニー喜多川氏死去

ギネスブック2012年版に掲載されたジャニーズ事務所のジャニー喜多川社長の写真。「最も多くのコンサートをプロデュースした人物」「最も多くのNo.1シングルをプロデュースした人物」の2部門で認定された
Photo By 提供写真

 【悼む】初めてジャニーズの所属タレントを取材したのは、マッチこと近藤真彦の渋谷公会堂でのコンサート。低迷期を終え、80年代前半「たのきんトリオ」で力強く復活した時だった。若い女性ファンのペンライトで凄い熱気だった。

 現場初体験の私に、先輩記者が「時計の針を変えない事務所だ」と教えてくれた。時流に合わせて男性アイドルを送り出すのではなく「Jの感性」が最優先なんだと。受付にメリー藤島副社長がいて、名刺交換すると初対面なのに「あなた?前に会ったかしら」と声をかけられ驚いた。今でこそ「J担」「ジャニ担」という言葉が定着したが、復活当初は流動的で番記者はいなかった。それがマッチ、少年隊、シブがき隊の音楽賞レース参加で定着。前人未到の黄金期を築き上げていった。

 ジャニーさんに初めて会ったのは光GENJIデビューの87年。テレビ朝日の旧Mステ時代に初出演する日に声がかった。それまでマスコミを避けていると思っていたが、冗舌だった。メンバーを前に「着脱式のローラースケート靴を開発したんです」と子供のようにはしゃいでいた。

 「ひもを縛っていちゃダメなんです」。ローラースケートのミュージカル「スターライトエクスプレス」の広報を指名された喜び以上に、靴を脱いですぐ踊れるアイデアは僕のものという現場人間ならではの発想があった。

 おごらず、いばらず、エンターテインメントの向上に夢中になる少年そのもの。その後、東京ドームで開催されたマイケル・ジャクソン氏の来日公演で孫のようなジュニアを引率していた。校長先生のようだった。音楽番組でも、リハから本番前の食事、おやつまで気を配っていた。6、7年前には偶然、渋谷公園通りですれ違った。NHKに近い場所の自社ビルの上層階に自前のスタジオを持った頃だ。眼鏡はいつしか老眼鏡に替わっていたが、若い世代の育成にかける熱い思いは永遠なのだと思った。戦争経験世代として、エンタメを通して平和と自由のありがたさを、21世紀を担う若い世代に伝えたかったのだと思っている。(スポニチOB・石山裕=80年代担当)

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