ジャニーさんの歩み 父はプロ野球球団マネ、野球チームから4人選び「初代ジャニーズ」結成

[ 2019年7月10日 08:55 ]

ギネスブック2012年版に掲載されたジャニーズ事務所のジャニー喜多川社長の写真。「最も多くのコンサートをプロデュースした人物」「最も多くのNo.1シングルをプロデュースした人物」の2部門で認定された
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 SMAPや嵐など、数多くのトップアイドルを生み出したジャニーズ事務所のジャニー喜多川社長(本名喜多川擴=きたがわ・ひろむ)が9日午後4時47分、解離性脳動脈瘤(りゅう)破裂によるくも膜下出血のため、都内の病院で死去した。87歳。米ロサンゼルス出身。6月18日に体調不良を訴え救急搬送され病院に入院していた。

 高野山真言宗米国別院の第3代主監を務めた喜多川諦道(たいどう)氏と、日本人の母親との間に生まれたジャニーさん。日米両方の国籍を持っていたため、ミドルネームがあった。父親の諦道氏について、ジャニーさんは生前「プロ野球球団“ゴールドスター(ロッテの前身の一つ)”のマネジャーだったんですよ」と明かしていた。

 母親が3歳の時に亡くなったこともあり、幼少期に一家で日本に戻り大阪で過ごした。戦争中は和歌山に疎開。終戦後に再び渡米し、ロサンゼルスで高校に通った。このころ、美空ひばりさんや笠置シヅ子さんら渡米した芸能人がロサンゼルスの高野山ホールで公演したことから、通訳などの手伝いをしながら、ショービジネスを学んだ。

 1950年に始まった朝鮮戦争に徴兵され、除隊後、50年代後半から米大使館軍事顧問団に勤務した。自身が住んでいた東京・代々木の進駐軍宿舎で、付近の少年たちを誘って組んだチームが「ジャニーズ」。ある日、雨で野球の練習ができなくなり、少年たちと映画館に行き鑑賞したのがミュージカル映画「ウエスト・サイド物語」(61年公開)。スタイルの良い男性が華麗に歌い、踊り、舞う姿に衝撃を受けた。「野球よりもこっちの方がいい」と路線を変更。野球チームのメンバーから4人を選んで「初代ジャニーズ」を結成し、歌って踊れる男性アイドルの育成をスタートさせた。

 3きょうだいの末っ子だったジャニーさんには、姉のメリー副社長とともに兄もいた。名前は真一(まさかず)さんで、米国航空宇宙局(NASA)に勤務。きょうだいの間では「マー坊」と呼ばれた。80年代に50代半ばで死去した。

 米国の国籍については、2015年1月にジャニーさんが取材に「国籍は長年、日本とアメリカのものを持っていたけれど、1~2カ月前に日本のみになった」と明かした。

 ≪平和と友情大事に≫疎開先の和歌山で空襲に遭い、朝鮮戦争で米軍に徴兵されたジャニーさん。平和や友情をテーマに数々の作品を手掛けた。企画・構成・総合演出を務めたミュージカル「少年たち」では軍隊で実際に聞いた言葉がせりふに。また厳しい上下関係も嫌った。

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2019年7月10日のニュース