ジャニーさん その凄さとは…卓越した相馬眼「履歴書の写真で成長分かる」、緻密な計算も

[ 2019年7月10日 09:25 ]

ギネスブック2012年版に掲載されたジャニーズ事務所のジャニー喜多川社長の写真。「最も多くのコンサートをプロデュースした人物」「最も多くのNo.1シングルをプロデュースした人物」の2部門で認定された
Photo By 提供写真

 SMAPや嵐など、数多くのトップアイドルを生み出したジャニーズ事務所のジャニー喜多川社長(本名喜多川擴=きたがわ・ひろむ)が9日午後4時47分、解離性脳動脈瘤(りゅう)破裂によるくも膜下出血のため、都内の病院で死去した。87歳。米ロサンゼルス出身。6月18日に体調不良を訴え救急搬送され病院に入院していた。

 希代の天才プロデューサーといわれたジャニーさん。どんなところが凄かったのか。

 【相馬眼】
 1カ月に1万通近く届くといわれる売り込みの履歴書の全てに目を通し、オーディションには自ら立ち会った。元KAT―TUNの赤西仁(35)が一度不合格になりながら、偶然声を掛けたジャニーさんに「ユーも残りなよ」と言われて合格組に入ったエピソードは有名。「履歴書の写真一枚で、その少年が大人になった時、どんな顔に成長するか分かる」(テレビ局関係者)ほどの“相馬眼”といわれた。

 本人は選考基準について「企業秘密ですよ」と明かさなかったが、「環境とやる気で顔は変わる。やる気がない子はダメ」と話していた。合格直後の少年に「ユー、出ちゃいなよ」と言って人気グループのステージに出演させるなどして経験を積ませながら才能を引き出した。

 【メンバー選び】
 グループを構成するメンバーの選び方も絶妙だった。顔やスタイルだけを見るのではなく、メンバー全員がそろった時の顔や個性の組み合わせまで計算。メンバー選びの「方程式」があるともいわれた。「やりたい人」に手を挙げさせ、メンバーを決めることもあった。育成時もタレントの個性を生かし、ローラースケートを使ったパフォーマンスの光GENJIや、バラエティー番組や司会業を足掛かりにしたSMAPなど多彩なグループを生み出した。

 【時代の先見性】
 男性アイドルの育成をスタートしたのは60年代前半。当時は男性が踊るのが恥ずかしがられた時代。男性アイドルという言葉ですら一般的ではなかった。それでもジャニーさんは「日本も生活がどんどんアメリカナイズされていたから、いつか受け入れられる」と信じていた。90年代には音楽番組が次々と終了。そこで、91年にデビューしたSMAPをバラエティーに進出させた。ジャニーさんは「平成のドリフターズに育てたい」と話した。SMAPはそれまでのアイドルの活動の選択肢になかったコントに挑戦。バラエティーで冠番組を持ち、国民的グループに成長した。

 【演出力】
 奇想天外な発想で、舞台やコンサートの新演出を次々に生みだした。模倣されることも多かったが、ジャニーさんは「まねしてくれるのは偉くなった証拠」と気にもとめなかった。「大切なのはリハーサル」というのが信条で、毎日のように劇場や稽古場に足を運び、本番直前にせりふや演出を一変させることも多かった。

 【コミュニケーション能力】
 楽屋ではタレントと演出論を交わすのが好きだった。舞台関係者は「トップスターになったタレントも、育ての親としての恩義だけでなく、ジャニーさんの仕事に対する姿勢を尊敬していた。どんなタレントとも年齢の差を超えてコミュニケーションをとれるジャニーさんがジャニーズ事務所の“求心力”だった」と話した。

続きを表示

2019年7月10日のニュース