ジャニー喜多川氏逝く 87歳 SMAP、嵐…帝国築いたアイドルの父

[ 2019年7月10日 05:30 ]

ギネスブック2012年版に掲載されたジャニーズ事務所のジャニー喜多川社長の写真。「最も多くのコンサートをプロデュースした人物」「最も多くのNo.1シングルをプロデュースした人物」の2部門で認定された
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 SMAPや嵐など、数多くのトップアイドルを生み出したジャニーズ事務所のジャニー喜多川社長(本名喜多川擴=きたがわ・ひろむ)が9日午後4時47分、解離性脳動脈瘤(りゅう)破裂によるくも膜下出血のため、都内の病院で死去した。87歳。米ロサンゼルス出身。6月18日に体調不良を訴え救急搬送され病院に入院。連日、タレントが見舞いに駆け付けたが、祈りは届かなかった。あまりに偉大なカリスマだっただけに、その死の影響は大きく、アイドル帝国の今後が注目される。

 先月18日に救急搬送されてから3週間。芸能界の偉大なカリスマが力尽きた。所属タレントの誰もが奇跡のカムバックを願ってきたが、その祈りは届かなかった。

 ジャニーさんは先月18日午前11時半ごろ、自宅で体調の異変を訴えて、病院に向かおうとしたところ意識を失い救急搬送された。救命措置で一般病棟に移ることができたため、タレントやジャニーズJr.との面会がかなったという。新旧のジャニーズヒット曲が流れる病室には、タレントたちが年の差を超えて集まり、ジャニーさんの好物だったハンバーガーやホタテ貝のおつまみなどを食べながら思い出を語り合った。危険な状態に陥ったときも「タレントたちが呼び掛け、体をこするたび危機を脱することができました」(事務所)という。

 スポニチ本紙の取材では、救急搬送されてから3週間、意識が戻ることはなかった。今月1日に入院が発表されて以降、落ち着いた状態が続いていたが、9日午後に突然体調が悪化。危篤状態になり、最期は家族らに見守られ、眠るように亡くなった。通夜・告別式は所属タレントとジャニーズJr.だけによる「家族葬」で執り行われる。後日、お別れの会を開く。

 日本一のアイドルメーカーとして最期まで第一線に立ち続けたジャニーさん。僧侶だった父親が布教のために行ったロサンゼルスで生まれた。1952年、朝鮮戦争で米軍の一員として朝鮮半島に派遣され、除隊後、米大使館軍事顧問団に勤務。62年に最初に発掘したグループ「ジャニーズ」を結成し、ジャニーズ事務所を設立した。

 当時は男性アイドルへの目が冷たかった時代。売れっ子を出せず苦しんだ時期もあった。それでも、歌って踊れる男性アイドルにこだわり続け、フォーリーブスや光GENJI、SMAP、嵐など、多くのトップスターを生み出した。

 手掛けたアイドルは主なデビュー組だけで45組、延べ166人。派生グループなどを含めるとこれ以上の数になる。経営など実務面を手掛けた姉のメリー藤島副社長(92)との二人三脚で、年間売り上げ1000億円超と言われるアイドル帝国を築き上げた。

 しかし、お金や名声には全く興味を示さず、男性アイドルのプロデュースを自身の使命と位置付け、そのスタイルを生涯変えなかった。ジャニーさんをよく知る芸能関係者は「タレントを発掘し育て、どう売るかを考えるのが生きがいで、その才能にもあふれていた。こんなプロデューサーは二度と出ない」と語る。

 今年から、タレントの発掘と育成業を滝沢秀明氏(37)に継承。死後への布石を打っていた。ただ、あまりに大きな存在だっただけに、その死が事務所の今後に与える影響は計り知れない。芸能界の転換点になる可能性もある。

 来年の東京五輪に向け、日本のショービジネスを盛り上げることに意欲を見せていたジャニーさん。生前、タレントに「もうボクの時代じゃない。つくるのはユーたち」と話していた。多くの人々を魅了してきた世界観は、残された者に引き継がれる。

 ◆ジャニー喜多川 本名・喜多川擴(きたがわ・ひろむ)。1931年(昭6)10月23日生まれ、米ロサンゼルス出身。62年にジャニーズ事務所を創業。ジャニーズ、フォーリーブス、光GENJI、SMAP、KinKi Kids、嵐など多くの男性アイドルを生み出した。2011年に「最も多くのコンサートをプロデュースした人物」「最も多くのNo.1シングルをプロデュースした人物」で、12年に「最も多くのチャート1位を獲得した歌手をプロデュースした人物」のギネス世界記録に認定された。

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2019年7月10日のニュース