誰からも「ジャニーさん」と呼ばれた理由…実はサービス精神旺盛で取材好きだった

[ 2019年7月10日 11:00 ]

ジャニー喜多川氏死去

ギネスブック2012年版に掲載されたジャニーズ事務所のジャニー喜多川社長の写真。「最も多くのコンサートをプロデュースした人物」「最も多くのNo.1シングルをプロデュースした人物」の2部門で認定された
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 【悼む】これほど大手の芸能企業の代表取締役なのに「喜多川社長」と呼ばれる姿を見たことがない。社員も取引先の人たちも「ジャニーさん」と呼ぶ。そんな人柄だから10代の所属アイドルとも同じ目線で向き合える。

 テレビ出演など、素顔をメディアに披露することは避けてきた。多くの人はマスコミ嫌いの印象を持つだろう。それは違う。取材現場では、タレントたちとの一問一答が終わった後、ジャニーさんに再度説明を聞く機会が多い。自信作の製作意図などについて熱弁が始まると、1時間では収まらない。実は取材好きで話好き。原稿の締め切り時間が迫った時は、失礼を承知で、こちらから一方的に話をまとめてしまうほど。そういう時でも「また長く話し込んじゃいましたね。すみません」などと逆に気を使ってくれる。そのまま、別室で原稿を執筆していると「お邪魔しに来ました」とユニークに背後から現れ、「言い足りなかったこと」を伝える。穏やかな口調に加え、言葉遣いはいつも丁寧で、社長なのに上から目線で接してきたことは一度も無い。

 ドームコンサートや海外公演など、ビッグイベントの時でも落ち着いた服装。ステージに立つアイドルたちとは対照的で、派手な装いをしない。仕事場へは自家用車で自ら運転する姿を何度も見た。旅客機はファーストクラスを好まず、新幹線で移動する時もグリーン車を避けた。世紀が変わり、昭和が遠くなった2001年ごろからだったか。それまでとは違い、生い立ちなどを積極的に明かす機会が増えた。

 父親が僧侶で、少年時代の生活拠点は米ロサンゼルスのリトル東京の寺院。現地の日系社会の拠点だったため、笠置シヅ子さんや美空ひばりさんらの米国公演の会場となった。“軒先”に昭和の大スターたちの楽屋があり、出入りするうちに親しい仲に。当時書いてもらったというサインを大切に保存しており、風呂敷の包みから、うれしそうに見せてくれた。目の輝きは少年と変わらなかった。

 当時は珍しかったバイリンガル。「YOUはどう?」などと時折、英語を交えて話すのが特徴で、所属アイドルたちもテレビ番組でネタにしてきた。語学力と米国生活を生かして、終戦後に駐日米大使館で通訳として勤務。代々木にあった進駐軍の宿舎で付近の少年たちを誘って組んだのが「ジャニーズ」だった。

 この時はまだ野球チーム。父親がプロ球団「ゴールドスター(金星スターズ)」の職員でもあった関係で「野球は身近だった」という。所属アイドルによる野球大会を東京ドームで毎年開催してきたのも、そんな理由からだ。

 1960年代、雨で野球の練習が出来なくなり、球児らと渋々、映画館へ行った。そこで鑑賞した作品が運命を大きく変える。ブロードウェーミュージカルを映画化した「ウエスト・サイド物語」(61年、米国)だ。スタイルの良い男性が華麗に歌い、踊り、舞う姿に衝撃を受けた。「野球よりもこっちの方がいい」と路線を変更。この時の体験が令和まで続くジャニーズ系アイドルの楚となった。一緒に映画鑑賞したメンバーたちでアイドルグループを結成。プロデューサーとしての第1号「ジャニーズ」が誕生し、メンバーにはあおい輝彦もいた。

 サービス精神が旺盛で会話の時は“オチ”を付ける。KinKi Kidsの2度目の東京ドーム公演についてインタビューした際、「ほかにも、驚きそうな仕掛けや演出はありますか?」としつこく質問した。すると「こんなに、いっぱい、しゃべったのにまだ足りないですか?」と前置きし、「では、東京ドームの天井からゴンドラに乗って私が登場しましょう。それなら満足してくれますかねえ」と笑いながら返してくれた。あの時の、いたずら好きな少年のような瞳が忘れられない。(編集委員・山崎智彦=90年からジャニーズ事務所を取材)

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