ジャニーさん 舞台演出で手腕 哲学は「タレントは大木、マネジャーは庭師」

[ 2019年7月10日 04:20 ]

ギネスブック2012年版に掲載されたジャニーズ事務所のジャニー喜多川社長の写真。「最も多くのコンサートをプロデュースした人物」「最も多くのNo.1シングルをプロデュースした人物」の2部門で認定された
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 9日に87歳で死去したジャニーズ事務所社長のジャニー喜多川さんは、舞台演出家としても並外れた才能を発揮した。個人名義で初めて賞を受けたのは2003年で、舞台界の栄誉、菊田一夫演劇賞「特別賞」。「永年のショービジネスに対する多大な情熱と功績」が評価された。

 それまで所属アイドルの受賞は多数あったが、「森光子さんや『レ・ミゼラブル』など、歴代のいろんな方が頂いている賞の仲間に入れてもらえて、とてもうれしいです」と感激。この時の取材では、いつになく生い立ちやルーツなどの秘話を多く明かした。

 父親は真言宗の僧侶で、海外でも布教するため渡米。ロサンゼルスで生まれたジャニーさんの少年時代は、リトル東京にある高野山米国別院が生活拠点となった。ここには笠置シヅ子さん、美空ひばりさん、二葉あき子さん、山口淑子(李香蘭)さんらが日系社会を元気づけようと公演などで訪れ、「楽屋に出入りするようになり、親しくしてもらった」。名前の擴(ひろむ)にちなんで「ヒー坊」と呼ばれ、「お客さんには、歌い手さんのブロマイド写真を1枚50セントくらいで売りまくりました。1枚でガム10個分くらいでした」と振り返った。

 服部良一さん、古賀政男さん、ディック・ミネさん、高峰三枝子さんらとも交流。「当時は大物の方々でも船で移動してきて、ショーの当日に舞台をつくる。照明係、緞帳をあげる係、演出まで4人くらいで全部やってあげた」と裏方として手伝った。

 こうして少年時代から積み重ねた経験は、後に大胆なアイデアで才能を爆発させる。例えば、現代では当たり前となっている衣装の早替え。これを舞台で演出した元祖とされ、1976年には「早変わり衣装」の実用新案を出願している。

 またジャニーさんが「この劇場のセリを私以上に使いこなせる人はいないのでは」と、よく自負したのは、1985年に最先端のシアターとしてオープンした青山劇場。24基が別々に上下動する、劇場名物の小セリをフル稼働させてセットに見立てたり、グループダンスをより立体的に見せるなど奇抜な発想で少年隊らのミュージカルを演出した。

 1962年にジャニーズ事務所を創業後、本格的に手掛けた舞台作品は「少年たち」シリーズ。フォーリーブスによるミュージカルで初演は1969年。「最初はセットもなく、日生劇場などでやってバカにされちゃいましたね」と苦い思いでも紹介したことがある。寺山修司氏とも交流があったため、「アングラな作品に商業劇を織り交ぜながら」上演を重ねて作品が進化。2010年ごろからはジャニーズ系の若手の登竜門的舞台となっている。

 「タレントは大木、マネジャーは庭師」がモットー。「タレントを木に例えるなら、それは太陽に向かって伸びていくしかない。大木を育てようと、最初は踏まれないように守ってあげるのがマネジャー。いつしか、自分が見上げるくらいまで育ち、成長してくれたら、マネジャーは枯れ葉を拾い集めるのが仕事になるんです」と力説していた。

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2019年7月10日のニュース