気がつけば40年(26)斎藤雅樹11試合連続完投勝利 復帰した藤田監督の下で不滅の大記録達成

[ 2020年10月21日 08:00 ]

巨人・斎藤が11試合連続完投勝利のプロ野球新記録達成。1989年7月16日付スポニチ東京版
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 【永瀬郷太郎のGOOD LUCK!】40年の記者生活を振り返るシリーズ。今回は1989年5月から7月にかけて11試合連続完投勝利のプロ野球新記録を達成した巨人・斎藤雅樹について、入団時から古い記憶をかき集めた。

 大記録の起点となったのは5月10日の大洋(現DeNA)戦(横浜)だった。7日の広島戦(広島)で初回わずか31球、3失点でKOされた直後、この年復帰した藤田元司監督に「きょうのことはもういい。10日に行くぞ」と言われていた。

 中2日のマウンド。7回まで最少失点に抑えていたが、5―1で迎えた8回、連打と四球で無死満塁のピンチを招いてしまう。藤田監督がマウンドに向かった。交代かと思ったが、「投手は先発完投」をモットーとする監督は斎藤の尻を叩いてベンチへ戻った。

 続投。カルロス・ポンセの中犠飛、中尾孝義の三塁けん制悪送球、さらに代打・片平晋作の右前適時打で1点差にされても藤田監督は動かなかった。

 なおも1死一塁。「打たれたけど、あまりいい当たりじゃなかったから思い切っていこうと思って投げました」。開き直った斎藤は代打・加藤博一を一塁ライナーに仕留めた。片平が一塁へ戻れず併殺でチェンジ。9回は3人で片づけた。5―4。接った試合を1人で投げ切ったのである。

 前年は38試合すべてがリリーフ登板だった斎藤を開幕第2戦から先発で起用した藤田監督。斎藤にとっては投手を続けさせてくれた恩人でもあった。

 入団1年目の1983年、5月だった。内野手転向を求める声が高まる中、多摩川へ2軍の視察にやってきた藤田監督に「ちょっと腕を下げてごらん」と言われた。オーバースローからサイドスローに。やってみるとカーブがよく曲がる。フォームを固め、イースタンで5勝した。

 翌1984年は1軍で4勝。85年は4完封を含む12勝を挙げた。そのままエースへの道を駆け上がるかと思ったら、左足二頭筋肉離れや右肘痛に見舞われて伸び悩んだ。弱気な面も指摘され、86年からリリーフに回っていた。

 再び内野手転向説が浮上していたタイミングで藤田監督の復帰が決まった。そのオフ、米カリフォルニア州パームスプリングスで行われた秋季キャンプ。ドジャース一筋で通算209勝を挙げた臨時コーチのドン・ドライスデールから「上から投げてごらん」と言われて戸惑いながら上から投げていた斎藤の姿が忘れられない。

 さて、話を戻す。5月10日の大洋戦で大記録への第一歩を記した斎藤は17日の中日戦(平和台)、24日のヤクルト戦(東京ドーム)と完投勝利を続け、30日の大洋戦(新潟)から6月4日の阪神戦(東京ドーム)、10日のヤクルト戦(神宮)と3試合連続完封。巨人では1966年堀内恒夫以来23年ぶりの快挙だった。

 6月16日の中日戦(東京ドーム)の3回、彦野利勝に左翼席へ運ばれ、連続無失点は30イニングで途切れたが、追加点は許さず1―1で延長戦突入。10回1死一、三塁のピンチをしのいだその裏、1死一、二塁から代打・岡崎郁の中前適時打でサヨナラ勝ちして連続完投勝利をキープした。

 インタビューでの口ぐせは「どうしたんでしょうか?」。6月24日の阪神戦(甲子園)、7月1日のヤクルト戦(神宮)、8日の大洋戦(横浜)もお立ち台で首をひねり続けて10試合連続完投勝利。1978年に鈴木啓示(近鉄)が記録したプロ野球記録に並んだ。

 そして7月15日のヤクルト戦(東京ドーム)。3安打完封で11試合連続完投の新記録を達成したのである。

 記録が途切れたのは22日の阪神戦(甲子園)だった。仲田幸司に完封されて0―5の完敗だったが、自責点は0。全失点に自らの二塁悪送球や内野手の失策が絡んだ。記録がストップするときというのはこんなものかもしれない。

 この年、20勝7敗、防御率1・62の成績を収め、最多勝、最優秀防御率賞、沢村賞に輝いた斎藤。2016年に野球殿堂入りする大投手になるのだが、その運命には巨人のV逸が関わっている。

 1982年のドラフト会議。荒木大輔(早実)を1位指名して競合したヤクルトに抽選で敗れた巨人は外れ1位で、中日も熱い視線を送っていた斎藤を指名した。

 中日も西武、阪急(現オリックス)と競合した野口裕美(立大)のくじを外したが、当時の制度では1位指名の抽選を外した球団はウエーバー方式で下位球団から外れ1位の選手を選んでいくことになっていた。

 この年、巨人は中日に逆転優勝を許したのだが、そのおかげで先に斎藤を指名できた。第1次藤田政権で唯一優勝を逃した年。転んでもただでは起きなかったというわけである。

 「斎藤が外れ1位で残っているなんてラッキー」と小躍りした担当の堀江スカウト。指名3日後に早くも契約にこぎつけた。

 埼玉県川口市東本郷のうなぎ料理店「和幸」で行われた交渉。私たちは「記者の方はこちらでお待ち下さい」と2階の広間に通された。すると襖1枚隔てた向こうから堀江スカウトの声が聞こえてきた。

 「契約金3500万円、年俸300万円ということで…」

 盗聴したわけじゃない。勝手に聞こえてきた。聞こえる場所へ通されたのである。前代未聞の公開交渉終了後の会見。契約金については誰も質問しなかった。(特別編集委員)

 ◆永瀬 郷太郎(ながせ・ごうたろう)1955年9月生まれの65歳。岡山市出身。80年スポーツニッポン新聞東京本社入社。82年から野球担当記者を続けている。還暦イヤーから学生時代の仲間とバンドをやっているが、今年はコロナ禍でライブの予定が立っていない。

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