名将・竹田利秋氏が見た東北勢苦闘 かつて「遠い存在だった」甲子園 “意識改革”が実を結んだ

[ 2022年8月23日 04:10 ]

第104回全国高校野球選手権第14日・決勝   仙台育英8―1下関国際 ( 2022年8月22日    甲子園 )

89年、帝京に惜敗し準優勝に終わった仙台育英・竹田利秋監督(右)
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 東北地方の高校野球発展に力を尽くした野球人がいる。東北、仙台育英で甲子園通算30勝を挙げた竹田利秋氏(81=国学院大野球部総監督)が、その一人だ。東北、仙台育英(ともに宮城)で長年監督を務め、全国の強豪に立ち向かった指揮官。ようやく果たされた「白河の関越え」に何を思うのか。名将が東北勢の苦闘を証言した。=敬称略=

 三沢(青森)が夏の決勝再試合で敗れたのが1969年。その4年前の65年、竹田氏は東北のコーチとして指導者人生をスタートさせた。それから57年。かつて指揮した仙台育英によって達成された東北勢の悲願を「おめでとう」と称えた。

 コーチ就任直後。「当時は甲子園など夢の夢。遠い存在だった」という。夏の第1回大会の秋田中以降、東北勢の決勝進出は一度もなかった時代。環境面とともに「心のハンデ」を痛感した。雪で12~2月はグラウンドが使えない一方、室内練習場は自作するしかない状況だった。「ゴミ捨て場を私と部員で整地したけど、樹齢20年の大松を20本以上取り除かないといけなかった」。部員が渋々、作業する状況で、救ってくれたのが高校総体王者だった自転車部の部員だった。「“お前たちは使えないぞ”と言っても、自転車部員は“筋トレ代わりに”と手伝ってくれた。日本一への目標設定の大切さ。これがスタートだった」。環境以上に意識改革の必要性。監督に就任した68年夏、初めて出場した甲子園の抽選会で見た光景は衝撃的だった。

 東北や北海道勢は対戦相手が決まるたびに静まり返った。一方で、西日本勢は勝ったとばかりに大騒ぎ。「これではダメ。劣等意識を何とか取り除かねば」と痛感した。「歴史を考えた時に、やはり69年の三沢、71年の磐城(福島)の準優勝が大きく東北地方のレベルを上げてくれた」。自身も72年選抜で4強に食い込んだ。「あのへんから昔の劣等感はなくなった。上位進出が続いたことで、東北地方の選手が(抽選会でも)下を向かなくなった」。77年から4年連続選抜出場など80年代前半にかけ甲子園常連校に。後に大リーグでも活躍した佐々木主浩を擁し、84年夏から3季連続甲子園出場し、85年は春夏連続8強。その秋にライバル校の仙台育英監督に就任し、4年後、ついに悲願への挑戦権を得た。

 エース大越基(現早鞆監督)を擁した89年夏、甲子園の決勝に初進出。だが、帝京を相手に0―0の延長10回に2点を奪われ、あと一歩で栄冠を逃した。

 それでも、竹田氏の思いは受け継がれた。68年の東北の主将だった若生正広氏(故人)が、93年に母校の監督に就任。03年夏、ダルビッシュ(現パドレス)を擁し決勝進出を果たした。竹田氏の後任として95年から17年まで仙台育英を率いた佐々木順一朗監督(現学法石川監督)も「本気になれば世界が変わる」をモットーに01年春、15年夏の決勝に進出した。

 竹田氏が手作りした冬場の練習施設。いまでは広大な土地を逆手に、充実した室内練習場が各地にできた。越境入学も盛んになり、東北全体のレベルが向上。促した意識改革が結実した東北初優勝だった。竹田氏は言った。「高校野球は郷土愛でチームを固めて、地元の選手たちが活躍する。そして甲子園で頑張ってほしい、という思いはあります」。今大会の仙台育英のベンチ入り18人のうち、16人が東北出身だった。(伊藤 幸男)

 ◇竹田 利秋(たけだ・としあき)1941年(昭16)1月5日生まれ、和歌山県出身の81歳。和歌山工では三塁手として58年選抜に出場。国学院大卒業後、銀行に勤めたが65年から東北のコーチを務め、68年1月同校監督に就任し、同年夏の甲子園に初出場。85年夏、佐々木主浩(元横浜など)を擁し全国8強。同年秋に仙台育英監督に就任。89年夏は大越基(元ダイエー、現早鞆)を軸に全国準V。甲子園には通算27度の出場で30勝27敗。96年に国学院大野球部監督に就任し、10年から総監督となった。

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