「鎌倉殿の13人」13人衆は一堂に会したのか?時代考証・木下竜馬氏が最速解説 頼家と13人の合議制

[ 2022年7月17日 20:45 ]

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第27話。ついに「13人の合議制」が誕生。勢揃いした“13人衆”の面々(C)NHK
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 俳優の小栗旬(39)が主演を務めるNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」(日曜後8・00)は17日、第27回が放送され、新章第2章がスタートした。タイトルの“13人衆”が一堂に会し、勢揃い。半年間をかけた“タイトル回収”&即不穏な展開は、SNS上で大きな反響を呼んだ。ドラマの時代考証を担当する1人、東京大学史料編纂所助教の木下竜馬氏がタイトルの基になった「13人の合議制」を解説する。

 <※以下、ネタバレ有>

 稀代の喜劇作家にして群像劇の名手・三谷幸喜氏が脚本を手掛ける大河ドラマ61作目。タイトルの「鎌倉殿」とは、鎌倉幕府将軍のこと。主人公は鎌倉幕府2代執権・北条義時。鎌倉幕府初代将軍・源頼朝にすべてを学び、武士の世を盤石にした男。野心とは無縁だった若者は、いかにして武士の頂点に上り詰めたのか。新都・鎌倉を舞台に、13人の家臣団が激しいパワーゲームを繰り広げる。三谷氏は2004年「新選組!」、16年「真田丸」に続く6年ぶり3作目の大河脚本。小栗は8作目にして大河初主演に挑む。

 第27回は「鎌倉殿と十三人」。土御門通親(関智一)から源頼朝(大泉洋)の死を知らされ、後鳥羽上皇(尾上松也)は思案。宿老たちが居並ぶ中、新たに鎌倉殿となった源頼家(金子大地)は自身の方針を表明した。これに北条時政(坂東彌十郎)と比企能員(佐藤二朗)が共に困惑し、梶原景時(中村獅童)は賛辞。その様子を政子(小池栄子)に報告した北条義時(小栗)は、弟・北条時連(のちの時房、瀬戸康史)と愛息・頼時(のちの泰時、坂口健太郎)を頼家の元へ送り出し…という展開。

 頼家は「私は比企や北条を特別扱いするつもりはない。私は家の名で人を選ぶことをよしとはせぬ。誰であれ、力のある者を登用していくつもりだ。それが、この頼家の政(まつりごと)である」と宣言した。

 しかし、通親暗殺計画が発覚して捕まった一条高能(木戸邑弥)や文覚(市川猿之助)の処遇、山積みの訴状、和田義盛(横田栄司)と景時の侍所別当争い、正室・つつじ(北香那)と一幡を産んだ側室・せつ(山谷花純)のマウント合戦…。2代目の重圧か、頼家は次々に起こる諸問題に辟易した様子。義時は頼家を支えるべく、大江広元(栗原英雄)三善康信(小林隆)中原親能(川島潤哉)二階堂行政(野仲イサオ)の文官4人と景時による“5人衆”を提案した。

 しかし、時政と能員のパワーゲームにより人数が膨れ上がり、あれよあれよと“12人衆”に。最後は政子が指名した義時が加わり、ついに“13人衆”が誕生した。

 頼家は義時の報告に「わしはそんなに頼りないか。わしなりに精いっぱいやっているつもりだが、それが気にいらんか」。義時の説得に「13人とは、増えたものだな。もうよい、分かった」と受け入れたものの、涙。宿老たちとの信頼関係は早々と崩れたようだった。

 御所・寝殿。義時は高らかに12人の名を呼び「並びに江間義時。以上、13名でございます」。“13人衆”が一堂に会した。景時は「これより訴訟取り次ぎはこの13人によって執り行います」と報告。しかし、頼家は「平三、聞いていた話とは違うな。むしろ誰か1人に力が集まらないので、好都合だ。のう、小四郎。しかし、私は騙されない。丸め込んだつもりでいたかもしれんが、小四郎、端からわしはおまえたちを信じてはおらぬ。父上は最後まで御家人に心を許してはおられなかった。わしも同じだ。平三、残念だ」――。頼家は時連や頼時ら6人の若武者を招き入れた。

 頼家は「わしが選んだ。手足となって働いてくれる者たちだ。信じられるのは、こやつらだけよ。これより、わしの政はわしとこの者たちで行う。もちろん、おまえたちと切磋琢磨してのことだ。新しい鎌倉を、皆で築いて参ろうではないか」とニヤリ。頼家の“逆襲”に、義時は険しい顔。景時は「頼朝様は、いささか亡くなるのが早すぎましたな」――。“13人衆”は爆誕即、崩壊のピンチ。大波乱の不穏な船出となった。

 三谷氏が「これが原作のつもりで書いている」と語るのが、鎌倉幕府が編纂した公式の史書「吾妻鏡」。成立は鎌倉時代末期の13世紀末から14世紀初頭とされ、治承4年(1180年)の「以仁王の乱」以降、鎌倉幕府の歴史が記されている。なお、時代考証の会議にはプロデューサー陣が参加。時代考証チーム(坂井孝一氏・長村祥知氏・木下氏)と三谷氏の直接のやり取りはない。

 頼家に訴訟の取り次ぎを行う「13人の合議制」が導入されたことは、「吾妻鏡」の正治元年(1199年)4月12日の記事にある。

 「様々な訴訟については、羽林(りうん、源頼家)が直に決断されることを停止し、今後は大小の事については北条殿(時政)・同四郎主(義時)ならびに兵庫頭(ひょうごのかみ)(中原)広元・大夫属(たゆうのさかん)入道康信(三善康信)・掃部頭(かもんのかみ)(藤原)親能(在京している)・三浦介義澄・八田右衛門尉知家・和田左衛門尉義盛・比企右衛門尉能員・藤九郎入道蓮西(安達盛長)・足立左衛門尉遠元・梶原平三景時・民部大夫(二階堂)行政らが談合を行って、計らい処理する。その他の物が理由もなく訴訟のことを(頼家に)取り次いではならない、と定められたという」(吉川弘文館「現代語訳 吾妻鏡」より)(※当時、大江広元は中原姓、中原親能は藤原姓)

 木下氏によると、2010年代頃、研究が進んだ結果、頼家に対する評価が変化し始めたという。

 従来は能力の劣る「暗君」とされてきた頼家だが「何か新たな文献が発見されたということでもないんですが、『吾妻鏡』の読み直しが進んで“頼家も意外とデキる人物だったんじゃないか”という再評価の動きが、この10年ぐらいで出てきました。その前に、まず1980年代ぐらいに研究が精緻になって、北条氏の傀儡とされてきた3代将軍・実朝の再評価が始まったんです。初代・頼朝はもともと評価が高かったので、その間の2代・頼家も見直してみようと。今まで素通りしてきた『吾妻鏡』の記事を足元から丁寧に読んでいくと、案外、通説とは違う一面が見えてきたんです」と研究の変遷を明かした。

 「『吾妻鏡』では、頼家が乱暴なことをする記事と、北条泰時が立派なことをいう記事が対照的に配置されています。これは、頼家の暗君ぶりと比べて、泰時、ひいては北条氏の素晴らしさを目立たせようとする後世のプロパガンダではないかと考えられるようになりました」

 富士の巻狩りと曽我事件が巧みに描かれた第23回「狩りと獲物」(6月12日)。頼朝が討たれたの一報に、頼家(万寿)は「私は大丈夫だ。敵は甲斐の武田の手の者か。平泉の残党か。母上たちが心配だ。守りを固めるようにと今、兵を割いて鎌倉に戻すよう命じた」と的確な采配。2代鎌倉殿の片鱗に、義時も「お見事」と目を見張った。この描写は、頼家の再評価が基になっている。

 頼家の再評価に伴い「13人の合議制」の位置付けも反転する。「頼家=暗君」と捉えれば「13人の合議制=頼家の政治関与を排除するシステム」になるが、木下氏は「それが18歳の若き頼家を支え、補佐するためのものという新説が出てきたんです」と説いた。「訴訟の取り次ぎを13人に限るが、最終判断は頼家がする、というのは新説の立場です。しかし、頼家はそれを自分の政治権力が蔑ろにされていると感じる。これは旧説の立場。旧説と新説の2つの見方をドラマの中でぶつけて緊張感を出しているのは、三谷さんの力です」

 ただ「中原親能は京にいる」と「吾妻鏡」に記されているように「問題なのは、13人全員が鎌倉で揃って会議をしていたのかどうか。その記述は『吾妻鏡』にはないので、今ひとつハッキリしません」。キーポイントとなったのは「吾妻鏡」にある「談合を行って」という文言の解釈。「『談合』の意味を『複数人が集まって相談する』と取れば、『13人が一堂に会して会議をしなかった』とは必ずしも言えないんじゃないか。『13人が一堂に会した』シーンをドラマで描くのもアリなのではないか。私としては、そう考えています。時代考証の会議でも、この『吾妻鏡』の解釈をめぐっては、ちょっとした研究会のような議論になっていましたね(笑)」。これが“13人衆揃い踏み”の描写の基になった。

 しかし「13人の合議制」は長続きしない。次回以降、木下氏が再び解説する。

 ◇木下 竜馬(きのした・りょうま)1987年、東京都生まれ。東京大学史料編纂所助教。専門は中世法制史、鎌倉幕府。新刊は、今年3月に発売された『鎌倉幕府と室町幕府』(共著、光文社新書)。

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