「引退の仕方が分からない」…担当記者が見た球児の涙 3年前に引退決意、気力と使命感で最後まで闘った

[ 2020年11月11日 06:45 ]

阪神・藤川球児引退試合 ( 2020年11月10日    甲子園 )

旭川大高を下しガッツポーズの高知商・藤川球児投手=1997年8月10日。第79回全国高校野球選手権大会

 【記者フリートーク特別版】1998年の6月だった。「高知にいいピッチャーがいる。いくぞ!」。当時、報徳学園の永田裕治監督(現日大三島監督)から聞かされた言葉で私たち野球部3年生を中心としたメンバーは高知に向かった。天候はあいにくの雨で試合は中止。願っていた対戦はかなわず帰路に就いた。

 「あの時ね。試合できなかったもんな。記者になったんだ」

 初めて藤川球児の名前を知った時から5年後の2003年9月だった。当時のことを覚えていた23歳の球児との初対面は2軍の本拠地・鳴尾浜球場。今では想像もできないだろうが、腰にロープを巻き付けて必死にタイヤを引いて走っていた。額から流れる汗もそのままに練習後に足を止め、こちらのあいさつに応じてくれたことは今でも鮮明に覚えている。

 「今年からスポニチの記者になった俺の同級生です。みんな、よろしく頼みますよ!」

 近くにいた先輩選手や後輩をわざわざ呼び止めて大きな声で紹介してくれた。プロ野球選手としては無名だった当時から人を引きつける人柄と優しさを持ち、そしてリーダー的な存在だった。それから球児番としていろいろな姿を見てきた。チームの中心として活躍した2005年の優勝、日本代表として世界制覇を果たした2009年のWBC、米大リーグに移籍した2013年、高知独立リーグに入団した2015年、阪神に復帰した2016年…。すべて現地で生の声を聞いてきた。

 2017年4月11日には遠征先の横浜で試合後に電話が鳴った。指定された店に向かうと開口一番の言葉が衝撃的だった。「今年で辞める。もう嫁とも話した」。思わず言葉を失った。それから4カ月後の同年8月11日。今度は大衆居酒屋の個室で二人っきりで酒を酌み交わした。

 「シーズン終了前に引退を発表したい。でも今の首脳陣は現役時代、一緒に戦ってきたチームメートだから。その人たちが戦っている。その人たちのことを考えると発表できない。俺、引退したことないから引退の仕方が分からないんだ…」

 食事を注文するタッチパネルの上に何度も涙がこぼれ落ちていた。初めて見る涙だった。万全ではない体。そして実は揺れ動く心を最後は監督にも伝えた。しかし当時の金本監督に「まだできる。引退なんて考えるな。頑張れ、球児」と強く引き留められて踏みとどまった。引退を決断してから今年で3年。気力と使命感だけで心をつなぎ止めながらも最後は自らの意思で潔く引き際を決めた。

 過去には恒例の沖縄自主トレでは同じ部屋に寝泊まりして取材したこともあった。球児はベッド、僕は隣部屋の布団。真っ暗な部屋で薄目を開けて見てみると商売道具の右肩を上にして横向きで寝ている姿があった。もう、そんなことも気にせず熟睡できるだろう。引退を発表した8月31日からこの日まで僕のLINEに残る球児とのやり取りの中で「ありがとう」の文字は13回。そして長く、短い最後の一日が始まるこの日の午前、自宅玄関で僕の体を引き寄せて耳元で「ありがとうな」と言って球場に向かった。人間・藤川球児の「優しさ」は初めて出会った、その時から何ら変わることはなかった。22年間、本当にお疲れさまでした。

 ◆山本 浩之(やまもと・ひろゆき)1980(昭55)年生まれ、兵庫県出身の40歳。報徳学園3年春に甲子園出場し、初戦で松坂率いる横浜に2―6で敗れた。大体大から03年入社。同年9月から阪神担当となり、2年間のオリックス担当を経て11年に阪神担当に復帰。19年から阪神担当キャップ。

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