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【コラム】海外通信員

シャペコエンセの悲劇

[ 2016年12月23日 08:00 ]

本拠地で亡くなった選手たちの告別式を行ったシャペコエンセ
Photo By スポニチ

 あれほどの悲劇はブラジルサッカー界において初めてのことだった。マラカナンの悲劇も、ミネイロンの惨劇も超えた。国中がただただ悲しみを共有する時間を過ごしたのだ。事故は夜中に起きたため、多くの人々は夜が明けて11月29日朝のニュースやSNSで第一報を知った。その日は、テレビもラジオも生放送で事故の様子や情報を流し続けた。一人でも多くの生存者がいることを願って…。

 乗客71人のうち生き残ったのは6人。大破した機体を見れば6人が生きて救出されたことは、まさに奇跡だと思えるものだった。シャペコエンセの選手及び関係者50人の遺体はブラジル軍によってコロンビアからシャペコまで移送され、軍が空砲を鳴らし最高の敬意で迎え入れた。大統領自らが一つ一つの棺に手を当て、労をねぎらう風景は、まさに国のために戦い命を失った兵士たちを讃えるかのようだった。

 2016ブラジルリーグ最終戦となった12月11日には、クラブごとにシャペコエンセへの哀悼の意を評すためシャペコエンセのエンブレム、#フォルサシャペ(がんばれシャペ)のスローガン、チームカラーの緑を使用した特別仕様のユニフォームを身にまとい、心を一つにした。

 それにしても、事故原因が燃料不足ということがあまりにもやりきれない。ボリビアのサンタクルス市からコロンビアのメデリン市まで4時間22分、今回使用した機材ではぎりぎりの燃料の飛行時間だった。本来は目的地が変わった場合の近隣の空港までと飛行時間が延長した場合に必要となる燃料分が無い状態で、途中で燃料補給することなくメデリンに向かって飛んだ。そして、パイロット兼ラミア社オーナーの一人であるミゲル・キロガが作った飛行計画を認めたのはボリビアの管制局の担当者セリア・カステドだった。無理な飛行計画に対し指摘したにもかかわらず、ラミア社のアレックス・キスペが実際はもっと早く飛ぶことができると説き伏せて…。あと30分飛行するための400リットルの燃料があれば助かった事故にやり切れなさを感じざるを得ない。

 シャペコエンセは、ここ数年で一気にブラジルサッカー界のトップリーグに台頭してきた極めて優秀なクラブだった。1973年創立は、他の名門クラブが既に100年の歴史を刻んでいることから比べると非常に若いクラブだ。

 ブラジルの南部はドイツやイタリア移民が入植した地域で、伝統的に堅実な農業、畜産で経済を活性化させてきた。教育レベルもブラジルの平均よりも高い。サンタ・カタリーナ州に位置するシャペコ市は人口20万人、周辺地区を含めると約40万人。また、シャペコ市を中心とした食肉業界経済圏としては200万人規模と畜産で有名な街で、いわゆる貧困に喘ぐブラジル内陸部や北部、北東部とはプロフィールが大きく異なる。

 特に有名なのは、豚肉、鶏肉など食肉加工業だ。ブラジルでシャペコ市の名前は、食肉加工業のシャペコ社とともに知られた存在だった。シャペコ社は経営不振により倒産してしまったが、現在も引き続き食肉加工業でブラジルのトップを走っているアウロラ社はシャペコ市に本社を置く。また、シャペコエンセの最大のスポンサーだ。アウロラ社は、実にブラジル人の生活の中に入り込んでおり、ハム、ベーコン、冷凍食品など切っても切れない存在だ。

 そして、日本への輸出も多く、アウロラ社の輸出先の15%は日本。日本で売られている鶏肉の多くをアウロラ社は供給している。日本とシャペコエンセのつながりはサッカーだけではないのだ。

 シャペコエンセは2009年にブラジル全国リーグ4部からデビューし、2013年に1部にまで昇格した。これほど短期間にトップにまで上り詰めたクラブはなかった。街がクラブを育て、一緒に成長する現在進行形のクラブだった。ブラジルのクラブにありがちな経営破綻や運営の乱れはシャペコエンセとは無縁で、汚職とは一線を画していたからこそ、短期間での成功につながった。

 コパ・スダメリカーノというリベルタドーレス杯に並ぶ南米チャンピオンズトーナメントで決勝に進み、後一歩でクラブにとって初の国際タイトルを手に入れる快挙を成し遂げるかというところで、まさかの悲劇に襲われた。

 しっかりしたクラブ運営をする真面目なクラブがなぜこんな不運に見舞われなければならないのか…。こんな悲劇は起こってはいけないことだった。起こらなくても良い事故だった。この理不尽さへの怒りややるせなさは尽きない。しかし、シャペコエンセはこれで終わらないはずだ。我らのチームと人々が愛し応援してきたクラブを蘇らせるために、人々は一層心を一つにしていくだろう。そんな強さを持っている街とクラブだろう。

 堅実経営をするシャペコエンセは未来のブラジルサッカーの行方のカギを握るお手本だったのだ。

 神様がなぜこんな試練をシャペコエンセにシャペコの人々に、ブラジルに与えたのかはわからない。一つのチームの消失にブラジルのみならず、世界のサッカーファンは悲しみを共感した。ここらか立ち上がるのに、多くの人たちの力が必要だ。この悲劇が街を、人々を団結させ子供たちの希望になり、そして、腐敗したブラジルサッカーを変えてくれる希望になっていって欲しいと願うばかりだ。

 94年にアイルトン・セナが事故死した時もブラジル中が悲しみに見舞われた。しかし、セナは今なおブラジル人の、世界の人々の心に生きて、彼の功績は決して色あせることはなく、評価され続けている。

 シャペコエンセの悲劇から、我々は何を学ぶだろう。(大野美夏=サンパウロ通信員)

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