さらば石原軍団 58年の歴史に幕、色あせぬ功績 盟友長嶋氏の称賛「裕次郎は永久に不滅」

[ 2021年1月17日 05:30 ]

石原プロモーションの商号の看板と石原裕次郎さん、渡哲也さんの写真が飾られた祭壇の前で思い出を語った舘ひろし(左)と徳重聡
Photo By スポニチ

 石原裕次郎さんが1963年1月に設立した芸能事務所「石原プロモーション」が、16日の創立記念日にマネジメント業務を終了した。東京・調布の事務所には舘ひろし(70)ら所属俳優らが集まり、商号の看板が東京・成城にある裕次郎邸でまき子夫人(87)に返納された。盟友の長嶋茂雄氏(84)が「石原裕次郎は永久に不滅です」と称え、芸能界にさまざまな足跡を刻んだ老舗スタープロが、58年の歴史に幕を閉じた。

 石原プロは裕次郎さんが28歳で自らの理想とする映画作りを実現させるために設立した。その心意気と「太陽と呼ばれた男」と評され、ファンに愛された明るい人柄に、昨年8月に亡くなった渡哲也さん、舘、神田正輝(70)らがほれ込み、強固な絆を誇る石原軍団を結成。映画やテレビだけでなく、復興支援の炊き出しなど日本中に感動と勇気を与え昭和、平成、令和の3時代を駆け抜けてきた。

 最後の区切りの日。その象徴である商号、裕次郎さんと渡さんの笑顔の写真が飾られた祭壇に手を合わせた舘は「いざ閉めるとなると寂しいな。思い出が走馬灯のように湧き上がってくる」とつぶやいた。2人に初めて会ったのは、79年「西部警察」の制作発表だった。後に渡さんの導きによって石原プロ入りしたが、裕次郎さんにもかわいがられ「本当に何でも受け止めてくれる大きな人だった」と追想する。

 裕次郎さんには肝臓がん、解離性大動脈瘤(りゅう)など病魔が次々と襲いかかり、87年に52歳で早逝。その2年前、裕次郎さんのハワイでの療養に運転手として同行した舘は、帰国前日に「社長、たまには俺に飯をおごらせてください」とランチに誘った。裕次郎さんはことのほか喜び、飲んではいけないシャンパンを注文。まき子さんも「一杯だけ」と許したが、「一気に飲んで俺の(グラス)にも手を出そうとして、奥さんに怒られていた」と懐かしそうに語った。

 渡さんも膠原(こうげん)病や呼吸器系疾患などと闘い続け、石原プロ解散が公表されたことを確認するかのように旅立った。渡さんの背中、その先の裕次郎さんを追い続けてきた舘にも万感の思いがある。

 「感謝しかない。初めてヨットに乗ったのもゴルフを始めたのも会社に入ってから。おもちゃ箱みたいな会社でいっぱい遊ばせてくれました。裕次郎さんの温かさ、渡さんの俳優としてのたたずまい、お二人のDNAは僕の中に残っています」

 緊急事態宣言下のため参加者も制限され、華やかなイメージの石原プロの終えんにしては寂しい“儀式”だったかもしれない。だが、その功績が色あせることはない。

 62年に裕次郎さんとまき子さんとともに米国旅行に行くなど親交が深かった長嶋氏も99年発行の「石原裕次郎写真集」に寄せた手記で「昭和最高のスーパースター・石原裕次郎は、日本人の胸の中で永久に不滅です」と語っている。いつまでも太陽は輝き続ける。裕次郎さん、そして石原プロの伝説は後世に語り継がれていく。

続きを表示

この記事のフォト

2021年1月17日のニュース