倉本聰氏「祭りの後の静けさ感じる」、海の向こうに消えてしまった裕ちゃんの大みこし

[ 2021年1月17日 08:45 ]

石原プロモーション 58年の歴史に幕 ( 2021年1月16日 )

インタビューに応じる倉本聰氏
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 石原プロと「大都会 闘いの日々」などでタッグを組み、石原裕次郎さんと同い年で飲み仲間だった脚本家の倉本聰氏(86)がスポニチ本紙の単独インタビューに応じ、この日の石原プロ解散を「祭りが終わった」と表現した。34年前に亡くなった裕次郎さんを支え続けた軍団。「現代ではこんな集まりはもう出て来ないでしょう」と時代を振り返りながら語った。

 石原プロは裕ちゃん(石原裕次郎さん)という大みこしがいて、それを担いでいた集団だった。見ていた連中も「わっしょいわっしょい」って興奮して一緒に叫んでいたけれど、祭りが通り過ぎて、みこしは海の向こうに消えちゃった。

 僕は「大都会 闘いの日々」(日本テレビ、1976年)、「浮浪雲」(テレビ朝日、78年)、「祇園囃子」(テレビ朝日、05年)で一緒に仕事をしました。石原プロはそばで見ていると照れくさいような男同士の集まりでしたね。コマサ(小林正彦元専務)っていう番頭が裕ちゃんに惚(ほ)れ込んで、渡(哲也さん)もまた裕ちゃんに惚れ込んで、その渡に舘ひろしが惚れ込んでいた。惚れ込んだ男たちがやっていたからあれだけのパワーがある体育会的な集団になったんでしょう。

 スケールが大きくて派手な作品形態を持ち込んだのはテレビ史に残るものでした。渡が主演だった「浮浪雲」は「(主人公が)チャンバラをしないでひょうひょうと生きているのがいいんじゃないか」という僕と「チャンバラをやらないから視聴率が上がらないんだ」というコマサとぶつかっていましたけどね(笑い)。

 思えば、裕ちゃんとは生まれが3日違いだったこともあってよく付き合って飲んだものです。彼が「太陽の季節」(1956年)で出てきた当初は眉をひそめて見ていたんだけどね。そのころ、僕たちはカスカスの生活を送っていた学生。学生運動をやったり、デモをやったりして食うや食わずでヒーヒー言って、闇市で安い酒を飲んでいた。そんな時にヨットや女だって言っているわけだから、そりゃ眉をひそめましたよ。だけど、映画が大ヒットして、僕も見に行った。時代が破天荒なヒーローに飢えていたんでしょう。裕ちゃんは新しい若者像としてキラキラ輝いて、みんなの憧れの人になった。

 やがてスターであり、社長にもなった裕ちゃんは石原プロの俳優やスタッフを食わせるため、金を稼ぐためにテレビの仕事にシフトしていたけれど、晩年まで映画を作りたいという情熱を持ち続けていました。一緒に飲みながら僕が「40歳過ぎてドンパチはないだろう」って話をした後、裕ちゃんからシナリオを考えてくれって言われて映画の台本を作ったことがあった。だけど、裕ちゃんの体調が思わしくなくて、実現しないままに終わってしまった。その後を渡が引き継いで、結局映画製作はできなかったけれど、人気を維持してここまでやってきたんですね。

 もう石原プロのような集団は出て来ないでしょう。今は世の中が複雑になった。不要不急じゃないことばかりで、追い詰められて変わっていくのではなくて、余裕を持って変化している。だからみんなにとってのスターが生まれにくい時代になった。石原プロは裕次郎っていうあれだけの器があったからこそできたものでした。

 これからは祭りの後の静けさを感じることになりますね。(談)

 ◆倉本 聰(くらもと・そう)本名・山谷馨。1934年(昭9)12月31日生まれ、東京都出身の86歳。59年に東大文学部を卒業し、ニッポン放送に入社。翌年日本テレビ「パパ起きてちょうだい」で脚本家デビュー。63年に退社し、独立。77年に北海道・富良野に移住。代表作に日本テレビ「前略おふくろ様」、フジテレビ「北の国から」。00年に紫綬褒章受章。

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