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【コラム】海外通信員

30歳の迎え方

[ 2011年11月5日 06:00 ]

欧州リーグ・チューリッヒ戦(11/3)でのラツィオFWシセ
Photo By AP

 もう10年近くも前になる。知り合った在仏日本人女性がオセール・ファンだというので、彼女と娘さんと友人を車に乗せて、“オセール詣で”をしたことがある。まだギー・ルー翁が監督だった時代で、フィリップ・メクセス、ジャン=アラン・ブームソン、ジブリル・シセらが大活躍していた。

 ブルゴーニュのぶどう畑に囲まれた小さな街のクラブだけに、選手たちも身近な存在で、友人母娘も大好きなブームソンのサインをもらってルンルンだった。さてそこに黒いジャガーで颯爽と登場したのがシセ。翌日は黄色いスポーツカー。「毎日変わるのは奇抜なヘアスタイルだけじゃなかったのか!」と、大笑いしたものだった。エキセントリックで強気。そのくせ生まれたばかりの赤ちゃんを抱いていて、どこか憎みきれない面もあった。

 当時のシセは飛ぶ鳥も落とす勢い。2001~02年シーズンのフランス得点王(22ゴール)に輝くと、02年5月18日には20歳の若さでフランス代表初キャップを飾り、ワールドカップ日韓大会に出場する。だがフランス代表は0勝0ゴールで無残に1次リーグ敗退。終盤に若いシセが投入されたときは、もう全てが終わっていた。

 とはいえシセの前途は洋々。03~04年シーズンにはまたしてもフランス得点王(26ゴール)に輝き、ユーロ2004出場も確実視されていた。ところが03年11月18日、U-21欧州選手権を戦っていたシセは、ポルトガル相手にファウルを犯して4試合出場停止に。これでA代表のユーロ出場が一発で吹き飛んでしまった。

 若気の至りで過ちを反省したシセは、心機一転、リバプールへ旅立つ。そこでもシセは06年に15ゴールを決め、ワールドカップドイツ大会のメンバーに招集された。ところが大会開幕直前の06年6月7日、悲劇が襲った。

 舞台はサンテティエンヌ。ワールドカップ準備の強化試合で、相手は中国。黒い弾丸のように駆け上がるシセを、敵が止めようとする。そのとき突然、ボギッという不気味な音が鳴り響き、「うおおおお~」という世にも恐ろしい声が空をつんざいた。見るとシセの足は、スネの下でグニャリと90度に折れていた。脛骨もひ骨も2本ともポッキリと折られてしまったのだ。これでワールドカップドイツ大会は夢と消えていった。このケガを目撃したときは、背筋が寒くなったものだった。

 普通ならここでキャリアは微妙になる。長い治療とリハビリは孤独できつく、精神的に参ってしまう選手も多い。たとえ復帰しても恐怖が脳裏にへばりつく。重傷を機にキャリアが終えんに向かう選手も少なくないのだ。

 だがシセは、「僕には鋼のメンタルがあるから」と言い続けて、ついに復帰を果たした。

 しかも南仏生まれのシセにとっては心のクラブであるマルセイユへ。ところが08年5月28日、ユーロ2008の第一弾リストで招集されながら、ドメネクによって開幕直前に外され、アルプスの合宿地から帰宅させられてしまう。

 それでもシセは不満も漏らさず、やがてパナシナイコスへ。みながシセを忘れ、バカにしても、シセはシンプルに言い続けた。「ここでゴールを決めまくれば、きっとまた招集されるよ」。そして09~10年シーズンのギリシャ得点王(23ゴール)に輝いてみせる。

 その結果ついに2010年ワールドカップ南アフリカ大会に招集されるのだが、今度はナイスナ事件が起こり、また地獄の敗退。シセが最後の南アフリカ戦で55分間プレーしたときは、もう全てが終わっていた。

 それでもシセは諦めない。ギリシャではフランス人に見てもらえないと理解したシセは、中国からの巨額オファーを辞退して、黒人差別も多いイタリアのラツィオへ。「ゴールを決めれば、きっとまた招集されるよ」。そしてとうとう今年10月、ローラン・ブランのスタッフから電話を受けた。ケガ人が出たための緊急招集だった。このときシセは、ツイッターにこう書いている。

 「今日は僕にとってでっかい日です。代表に呼ばれたんです。僕はすごく嬉しい。自分の国を代表できてすごく誇らしい。パナシナイコスとラツィオのサポーター、そして僕を応援してくれたみんなにお礼を言います」

 その数日後である。スタッド・ド・フランスで不思議なことが起こった。ユーロ2012予選突破をかけたアルバニア戦の最中に、観衆が突然、「シセ! シセ! シセ!」の大コールを始めたのである。まるでジダンがいた幸せなあのころの、「ジズー」コールみたいに、それは巨大な渦になっていった。そしてシセは最終盤、10分だけプレーした。2本シュートを打って、外した。だがパスも出した。懸命に。そんなシセに、観衆は巨大な拍手を送った。

 試合後、ミックスゾーンに現れたシセの顔は、幸せいっぱいだった。シセコールがどうしても理解できないジャーナリストが、「それにしても奇妙な大コールだったけど」と首を傾げると、シセはくしゃくしゃの笑顔で答えた。

 「ん、まあ、たぶん、僕が断固としてやる気満々だったからかもしれないね。代表に絶対戻りたいし、そのためならどんなことだってする、って言ってきたから、それが人々の気に入ったのかもしれない。人々は、必死にプレーしようとする選手、必死に国を代表しようとする選手を求めているんじゃないかと思う。きっとそれだな」

 気づけばシセは、もう30歳になっていた。

 未来を嘱望されながら、悲劇と逆境に見舞われてきたシセは、やはり不運だった。だが毎回、強靭なメンタルとピッチ上の結果で、必ず再起した。そして再起するたびに、より強く、より幸せになった。そしてその幸せを人々に惜しみなく捧げた。だからスタッド・ド・フランスの観客もそれに報いたのだ。

 ぶどう畑をド派手なスポーツカーで疾駆していたシセがこんな風に30歳を迎えるなんて、当時は想像もできなかったが、スタッド・ド・フランスの光景を見た私は、シセの幸せと元気をもらいながら、思わず涙をこぼしそうになった。

 フランスでよく聞く格言を思い出したのだ。「汝を殺さないもろもろは、汝を一層強くする」。死にさえしなければ、悲劇も逆境も不幸もあなたを強くしてくれる、という意味である。あなた次第で。(結城麻里=パリ通信員)

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