寂聴さん 激動の99年 夫の教え子と駆け落ち、自身の泥沼全て執筆 奔放すぎて干されたことも 

[ 2021年11月12日 05:30 ]

瀬戸内寂聴さん死去

作家・瀬戸内晴美として活躍していた頃の寂聴さん=1972年撮影
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 「愛した、書いた、祈った」。寂聴さんの墓碑に刻む言葉として本人が生前、決めていた。この言葉には寂聴さんの人生が凝縮されている。高校、大学と女子校で異性との交際経験がないまま、1943年に9歳年上の外務省留学生と見合い結婚。中国音楽を研究していた夫の暮らす北京へ渡り、翌年長女を出産した。

 だが、25歳の時、夫の教え子だった4歳年下の男性に恋し、夫と3歳の愛娘を東京に残して京都へ駆け落ち。生活のため次々と雑誌に艶っぽい小説を書いたことで「書く力」が鍛えられた。

 事件は35歳の時に起きた。女性の奔放な性を描いた小説「花芯(かしん)」を発表すると、その過激な官能描写は男性中心の文壇で「ポルノ小説」と酷評。「子宮」の表現を多用したことで「子宮作家」とのレッテルが貼られた。寂聴さんが批評家に「インポテンツで、女房は不感症だろう」と反論し火に油。文壇から干される不遇な時代は5年続いた。

 書くことが生きる原動力になった。私生活では年下男性のほか妻子のいた作家の小田仁二郎氏や作家の井上光晴氏とも不倫関係にあったが、こうした男女の泥沼も全て書いた。51歳で井上氏との関係清算に加え「自分の文学を深めるため」に出家し、男性との交際もなくなり一切のセックスを絶った。

 07年には本紙のインタビューに「書くことが楽しくて、楽しくて。私にとって快楽なの」と明かすなど、書くことそのものが人生だった。亡くなる直前まで複数の連載を抱えた寂聴さん。最期まで情熱は衰えることなく旅立った。

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