新庄の極秘練習手伝った元猛虎戦士 「新庄の夢は50代のおじさんたちの夢」 ビッグボス誕生の秘話明かす

[ 2022年7月6日 07:00 ]

猛虎の血―タテジマ戦士のその後―(16)吉田浩氏

98年の安芸キャンプで新庄剛志(左)と練習する吉田浩
Photo By スポニチ

 日本ハム・新庄剛志監督の日本球界復帰に、阪神OBがひと役買っていた。トライアウトに挑戦した20年オフ。大阪でサラリーマン生活を送る、ドラフト同期の吉田浩氏(50)は極秘トレに協力していたという。現在もビジネスの第一線から、阪神とビッグボスに熱い視線を送る日々。「新庄の夢は50代のおじさんたちの夢なんです」と挑戦のその先にあるものに期待していた。 吉田浩氏の動画「スポニチチャンネル」はこちら

 30年来の友人として、ビッグボスの誕生に関わってきた。20年冬のトライアウト挑戦では、兵庫県内の山奥のグラウンドを手配。大学で準硬式野球をしていた息子と、その仲間たちとともに「少しでも実戦勘を取り戻してほしい」と直前練習に協力した。その後も球界復帰を目指す新庄剛志に、社会人の先輩として会社組織、意思決定の仕組みなど基礎知識を伝えてきた。

 「本当に監督になってしまう。その実行力はすごい。手伝ってほしい、という話もあったけど、ボクもサラリーマンですからね。第三者として応援する形を選んだ。どんな形になってもいい。新庄らしく戦って、子供たちに野球って面白いと感じさせる試合をしてくれれば十分です」

 89年ドラフトで同期入団だった。契約金ですぐに真っ赤なベンツを購入し「こんなん買って税金どうするんだ」「税金って何」のやりとりの末に球団にお金を借りたこと、神戸・三宮のディスコで夜遊びをしたこと、いちごジャムをつけた練乳パンが好物だったこと。思い出は尽きないが、野球に対する取り組みは一目置いていた。阪神園芸から甲子園の鍵を借りて、早朝のグラウンドで一人練習もしていた。誰にも努力する姿を見せない。それが彼のスタイルだった。

 「剛志はアイデアがすごい。メンタルも強い。彼が取り組んでいることは10年後、球界の常識になっていると思う。事実、これまでがそうだった」

 一方で吉田の現役生活は、その新庄が放つ輝きの陰にいた。同じ外野には新庄も亀山努もいた。「アゴヨシ」のニックネームで2軍の有望株にはなったが、1軍に上がるのに6年かかった。「このままで田舎の富山には帰れない」の危機感を常に背負った。プロ3本目となった最後の本塁打は今でも覚えている。01年9月23日の甲子園での中日戦で朝倉健太から打ったものだ。プロ12年目。戦力外を覚悟していた。最後かもしれないと家族も呼んでいた。7回の第4打席。3ボール0ストライクの場面で、野村克也監督に「次の一球を打たせてください」と懇願した。人生をかけた打球は右翼スタンドに飛び込み、契約は更新された。

 野球人生で忘れられないプレーがもうひとつある。戦力外通告後、社会人野球の住友金属鹿島でプレー。03年には社会人日本代表に元プロとして初めて選ばれ、キューバでのW杯に出場した。その準決勝・パナマ戦は自らの失策で敗戦。責任を感じる吉田の背中を、村上忠則監督(日産自動車)が叩いた。「浩、敗者復活戦こそが大事なんだ」。3位決定戦でも起用され、銅メダルに貢献できた。この経験がサラリーマン人生に生きている。

 「勝つにこしたことはないけど、勝ち続けることはできない。負けてからも、結果を出すために頑張ることが大事。部下にもよく言っているし、阪神も今年は苦しいけど、この負けを何とか生かしてほしい。OBとしてそれを願っています」

 日本製鉄大阪支社建築資材室主幹としてチームを率い、新庄にはLINEで「ナイスゲーム」のメッセージを送ることを楽しみにしている。フィールドは違えど、球友へのライバル心とタテジマのプライドを、吉田は今も持ち続けている。 =敬称略= (鈴木 光)

 ◇吉田 浩(よしだ・ひろし)1971年(昭46)11月5日生まれ、富山県高岡市出身の50歳。高岡第一では甲子園出場なし。89年ドラフト6位で阪神入団。6年目の95年に1軍デビュー。主に代打、代走、守備固めで97年は自己最多の82試合に出場した。02年の自由契約後は社会人の住友金属鹿島でプレー。都市対抗に3度出場し、03年には社会人日本代表。現在、日本製鉄大阪支社で勤務。通算成績は221試合、3本塁打、13打点、打率.240。阪神時代の背番号は64、42、0。左投げ左打ち。

続きを表示

この記事のフォト

2022年7月6日のニュース