「鎌倉殿の13人」りく策士!ネット驚愕&戦慄“67人の連判状”時代考証・木下竜馬氏も脱帽の三谷脚本

[ 2022年7月24日 20:45 ]

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第28話。夫・北条時政(坂東彌十郎・左端)が署名した連判状の左端を切り取るりく(宮沢りえ)(C)NHK
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 俳優の小栗旬(39)が主演を務めるNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」(日曜後8・00)は24日、第28回が放送され、歌舞伎俳優の中村獅童(49)がクールに存在感を示してきた侍所別当・梶原景時の“最期”が描かれた。御家人66人が連判状に署名し、景時が追放された「梶原景時の変」。鎌倉幕府初代将軍・源頼朝亡き後、権力闘争から勃発した最初の事件を、ドラマの時代考証を担当する1人、東京大学史料編纂所助教の木下竜馬氏が解説する。

 <※以下、ネタバレ有>

 稀代の喜劇作家にして群像劇の名手・三谷幸喜氏が脚本を手掛ける大河ドラマ61作目。タイトルの「鎌倉殿」とは、鎌倉幕府将軍のこと。主人公は鎌倉幕府2代執権・北条義時。鎌倉幕府初代将軍・源頼朝にすべてを学び、武士の世を盤石にした男。野心とは無縁だった若者は、いかにして武士の頂点に上り詰めたのか。新都・鎌倉を舞台に、頼朝の13人の家臣団が激しいパワーゲームを繰り広げる。三谷氏は2004年「新選組!」、16年「真田丸」に続く6年ぶり3作目の大河脚本。小栗は8作目にして大河初主演に挑む。

 第28回は「名刀の主」。北条時政(坂東彌十郎)と比企能員(佐藤二朗)との争いにより、訴訟の取次を行う宿老は、北条義時(小栗)と梶原景時(獅童)の“5人衆”構想から大きく逸脱。“13人衆”にまで膨れ上がった。2代鎌倉殿となって気負う源頼家(金子大地)は、これを自身の力を侮っている結果だと捉えて憤慨。北条時連(のちの時房、瀬戸康史)・頼時(のちの泰時、坂口健太郎)ら“若手6人衆”を側に置き、牽制する。そんな中、13人の宿老たちが集まり、常陸の御家人の土地争いについて評議を行う…という展開。

 実衣(宮澤エマ)に琵琶を教える下野の御家人・結城朝光(高橋侃)は数日前、仁田忠常(ティモンディ高岸宏行)と雑談。宿老たちに耳を貸さず、蹴鞠に興じる頼家のことを「とても鎌倉を率いるに相応しいとは思えない。頼朝様には、もっと生きていてほしかった。忠臣は二君に仕えず」。朝光の烏帽子親は頼朝だった。頼家への誹謗は善児(梶原善)から景時に伝わり、翌日、朝光は謹慎を命じられたと実衣に打ち明けた。

 その頃、頼家は安達盛長(野添義弘)の息子・景盛(新名基浩)の妻・ゆう(大部恵理子)を見初め「わしにくれ」と無理難題。さすがの盛長も「こればかりは承服するわけにはまいりません。力ずくで人の妻を奪ったとなれば、鎌倉殿の名に傷がつきます」と諌めたが、頭に血が上った頼家は今すぐ安達父子の首をはねよと命じた。

 景時は義時を通じて政子(小池栄子)を呼んでいた。政子は「いい加減に目を覚ましなさい。自分のやっていることが分かっているのですか!」と息子を厳しく叱責。頼家は「よくも母上を担ぎ出したな。覚えれおれ」。景時は「他に手がございませんでした。覚えておきまする」。一件落着したかに見えたが、頼家は御家人たちの信用を失った。景時は、謀反を企んだとして朝光の死罪を決断。朝光を見せしめに、御家人たちの引き締め、反頼家派の一掃に乗り出した。

 義時は、三浦義村(山本耕史)らに相談。義村は「人数を集めて訴状に名を連ね、鎌倉殿に処分を訴え出るんだ」と提案。和田義盛(横田栄司)と畠山重忠(中川大志)は賛成した。

 最初は時政。りく(宮沢りえ)は夫に「これを機会に、梶原を引きずり下ろしてしまいましょう。四郎様のお名前は御家人の重しになります。一番最後にデンとお書きください」と巻紙の一番左端を指し示した。

 義時は「あまり大ごとにはするな」と注意していたが、4~5人のはずが、67人に膨れ上がった。義村は「思ったよりも梶原のおっさん、嫌われていたようだ」。翌日に大江広元(栗原英雄)に連判状を預けると、時政に報告。すると「失礼」と、りくの手が伸び、巻紙の左端に書かれた時政の名前を小刀で切り離した――。「うちの人は関わりなかったことにさせていただきます。百に一つ、鎌倉殿と梶原殿が結託したら、どうするのです?名を連ねた御家人たちは根こそぎやっつけられてしまいます。(巻紙の一番左端に書くよう指示したのは)切り取ったのが分からぬように」。りくが先手を打っていた。時政の出世欲を煽るりくの策士ぶりが、ついに本領を発揮。義村も「あんた、やるな」と舌を巻いた。

 結局、景時は「66人の連判状」により罷免。相模に下向したが、後鳥羽上皇(尾上松也)との合流計画が明らかになり、奥州外ヶ浜への流罪が決定。頼家と側室・せつ(山谷花純)の息子・一幡を京に着くまでの人質に取ったものの、義時に阻まれ、流罪先に向かうと比企館を後にした。しかし、義時は頼時に「すぐに兵を整えよ。梶原殿は必ず西に向かわれる。東海道で討ち取る。分からぬのか。梶原殿は華々しく戦で死ぬおつもり。武士らしくな。急げ」。夜、気付けば雪が舞っていた。

 SNS上には「りく、怖ぇぇぇ」「これは女軍師りく」「何というりくの深謀遠慮。これはトメ(宮沢りえがクレジットの最後)だわ」「メフィラス(映画『シン・ウルトラマン』の山本耕史の役)が手玉に取られるとは。恐るべし、りくさん」「メフィラス星人に褒められるほどの策士」などの声が続出。視聴者を恐怖に陥れた。

 三谷氏が「これが原作のつもりで書いている」と語るのが、鎌倉幕府が編纂した公式の史書「吾妻鏡」。成立は鎌倉時代末期の13世紀末から14世紀初頭とされ、治承4年(1180年)の「以仁王の乱」以降、鎌倉幕府の歴史が記されている。なお、時代考証の会議にはプロデューサー陣が参加。時代考証チーム(坂井孝一氏・長村祥知氏・木下氏)と三谷氏の直接のやり取りはない。

 66人の連判状について、木下氏は「りくが連判状に一枚かんだというのは三谷さんの創作なんですが、何をアイデアの種にされたかというと、『吾妻鏡』の記述です。連判状に署名したメンツに時政が入っていないんです」と切り出した。

 「吾妻鏡」の正治元年(1199年)10月28日の記事には、こう記されている。

 「晴れ。巳の刻に千葉介常胤・三浦介義澄・(中略)・三浦兵衛尉義村・畠山次郎重忠・(中略)・足立左衛門尉遠元・和田左衛門尉義盛・(中略)・比企右衛門尉能員・(中略)・(中略)・安達藤九郎盛長入道・(中略)・岡崎四郎義実入道・(中略)・右京進(中原)仲業以下の御家人らが、鶴岡八幡宮の廻廊に群衆した。これは(梶原)景時を指弾する一味同心を改めない旨を(神仏に)誓うためである。しばらくして仲業が訴状を持参し、衆中でこれを読み上げた。鶏を養う者は狸を畜(か)わず、獣を牧(か)う者はやまいぬを育てない、と記されていた。義村は特にこの句に感心したという。それぞれ署判を加えた。その人数は六十六人である。(後略)」(吉川弘文館「現代語訳 吾妻鏡」より)

 ここに時政の名前はない。木下氏は「どうして時政の名前がないのか。『吾妻鏡』を読んでいくと、ちょっと違和感がありますよね」。「吾妻鏡」には、阿波局(実衣)が朝光に「(『忠臣は二君に仕えず』の件を)景時が頼家に告げ口し、あなたが殺されます」と伝えた【※1】とあるため「時政が裏で糸を引いていたと黒幕説を唱える研究者もいましたが、では、なぜ時政が連判状に署名していないのか。これという定説は、今まで特にありませんでした」と説いた。

 頼朝落馬を描いた第25回「天が望んだ男」(6月26日)も、阿野全成(新納慎也)が助言した「相性の良くない色」「昔を振り返る」などの凶兆を「頼朝が回避していく話の運び方が、見事な発明。落馬という“ゴール”を逆手に取って、そこに至る描き方が素晴らしいと、いち視聴者としても感じました」と舌を巻いた木下氏だが「今回も時政が連判状に署名していないという“ゴール”は決まっている中、その過程に、りくが連判状に時政の名前を書かせた後、切り離すなんて、研究者には思いもよらない仕掛けを三谷さんがされました」と神がかる作劇に脱帽した。

 「今回も三谷さんの想像力の凄さ、歴史ドラマを創作する面白さを実感しました。三谷さんのアイデアを形にするため、どういう形の文書なら時政が署名を巻紙の左端に書いてもおかしくないのかを考えるのが、こちらの仕事です。南北朝時代の実際の文書を参考にしました」

 劇中後半に描かれた、罷免された景時を後鳥羽上皇が味方につけようとしていたのは「梶原景時が上洛して後鳥羽上皇と結びつこうとしたと『吾妻鏡』に書いてあるのを基にしていますね。幕府もこの時、後鳥羽の動向を疑っています。ドラマではこの後、後鳥羽は鎌倉幕府と相容れない存在として立ち現れてきますが、承久の乱(後鳥羽上皇と義時ら鎌倉幕府の戦い)への伏線が巧みに張られた回だと思います」と総括した。

 前回(第27回、7月17日)誕生したばかりの「13人の合議制」。出家して鎌倉を離れた中原親能(川島潤哉)と景時が早くも姿を消した。“権力闘争(バトルロイヤル)”の行方は――。

 ◇木下 竜馬(きのした・りょうま)1987年、東京都生まれ。東京大学史料編纂所助教。専門は中世法制史、鎌倉幕府。新刊は今年3月に発売された『鎌倉幕府と室町幕府』(共著、光文社新書)。

 【※1】「吾妻鏡」正治元年(1199年)9月27日の記事「女房阿波局が結城七郎朝光に告げて言った。(梶原)景時の讒訴(ざんそ)によって、そなたはすでに誅殺されようとしています。その理由は、忠臣は二君に仕えないと述懐して今の世を謗(そし)ったからであり、『これがどうして敵にならないことがありましょうか。傍輩(ほうばい)を戒めるためにも、早く断罪すべきです』と(景時が)事情を言上しました。今となっては虎口の難を逃れることはできないでしょう。(後略)」(吉川弘文館「現代語訳 吾妻鏡」より)

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