純烈、最大のピンチは東日本大震災後 小田井涼平「俺は内心、終わった~と思いましたよ」

[ 2022年10月23日 18:43 ]

「純烈」の小田井涼平
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 人気歌謡グループ「純烈」のリーダー酒井一圭(47)小田井涼平(51)が、23日放送のニッポン放送「笑福亭鶴瓶 日曜日のそれ」(日曜後4・00)にゲスト出演し、グループ存続の危機について語った。

 酒井が07年、撮影中の事故で入院した際、なぜか繰り返し「前川清とクールファイブ」の夢を見たことから、それを暗示と信じて結成。とはいえ、歌は素人で、レーベル各社の反応は微妙だったという。酒井は「最初、スタジオで2年半、デビューが決まる前にいろんなレコード会社に来ていただいたんですけど、“歌、しんどいわ。あかんやろ”って言ってみんな帰って行って」と振り返った。

 レッスンなどを経て10年にレコード会社と契約し、ようやくデビューにこぎ付けた。ところが、そんな時に起きたのが11年の東日本大震災だった。酒井は「2011年、東日本大震災があって、“行くぞ!”という時に地震で何もできなくなって、クビで」と回想。小田井も「レコード会社は契約が1年更新なんですよ。その年の売り上げ成績が良くないと審議にかけられてしまうんです」と、レコード会社との契約を打ち切られた事情を説明した。

 突然の契約打ち切りに、小田井は「クビになった時、俺は内心“終わった~”と思いましたよ」と当時の素直な心境を打ち明けた。「青天の霹靂ってホンマにこういうことやと。まして世の中が自粛ムードだったから、はい上がるすべが分からなかったんですよ。新しいことをやるって言ったって、やった結果で2年でクビって、デビューしたはええけど、どうしようと思って」。しかも、俳優としての仕事も止め、純烈の活動に絞っていただけに、追い込まれてしまったという。

 酒井は特に、自らスカウトした小田井、リードボーカルの白川裕二郎には申し訳なさを感じた様子。「(加入した)当時、リードボーカル白川と小田井さんは給料制の俳優だったんです。ちゃんとお金もらっている人たちだった。それを、事務所も辞めて“純烈やってくれ”と引っこ抜くってことは、家賃あるし、携帯代とかあるって言って。僕の持ってるギャラを2人にまず渡す」と、金のやりくりを説明。酒井自身も子供が生まれたばかりだったが、妻には「“ごめん。創業者なんでちょっと耐えてくれ”と言って、うちの奥さんは義理の母にずっとくっついて買い物して」。現場でもらうおひねりも、自分は手にせずメンバーたちで分けてもらったという。

 その後もメンバーはキャバレー従業員など、バイトを2、3個掛け持って何とか生活。酒井は「2015年とか16年くらいに初めて、全員が(給料が)15万、14万くらいだったかな?純烈に集中できる環境がようやく整った。それまではみんないろんなことをやってましたね」と懐かしんでいた。

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2022年10月23日のニュース