小西良太郎さん ヒット曲連発の背景には新聞記者としての人脈とアイデア、そして筆力と胆力が

[ 2023年5月16日 05:40 ]

小西良太郎さん死去 86歳

亡くなった小西良太郎さん
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 【悼む】歌謡界の大物が旅立つたびに「悼む」の原稿を書いていただいた小西さんを「悼む」時が来ようとは…。最後にお願いしたのは昨年2月の西郷輝彦さん。突然の依頼にも40分ほどで書き上げ「どうだぁ?」と確認の電話が入る。50年以上前の話でもくっきりと情景が浮かぶ筆致にはいつも驚かされた。

 音楽プロデューサーとしても活躍されたが、根底には新聞記者としての人脈とアイデア、その筆力と胆力があったと思う。1978年、作曲家の浜圭介氏から「心揺さぶられる詞が欲しい」と相談され、渡したのが、♪お酒はぬるめの燗(かん)がいい――で始まる「舟唄」だった。数日後、スポニチ本社にギターを抱えた浜氏が「今から聴け!」と飛び込んできたのは、今や伝説だ。

 実はこの歌詞。小西さんが企画したスポニチの紙面連載「阿久悠の実践的作詞講座」の最終回、美空ひばり編に阿久さん自らお手本として書いてあったもの。新聞掲載用なので2コーラス分しかなく、浜さんが当初作った曲もそこまで。すると、小西さんは曲の合間に勝手にダンチョネ節を挟み、阿久さんに歌詞を追加発注。翌79年に発表され、八代亜紀の代表曲となった。この年にスポニチ紙面では阿久さんの大河連載「甲子園の詩」をスタートさせ、翌80年に同じ阿久&浜コンビで「雨の慕情」を作るという流れには、常に新聞記者としての視点と発想があった。

 ところで、小西さんが書いた最後の「悼む」には3パターンのオチが書いてあった。不思議に思い「これは何ですか?」と確認すると「お前は原稿見てから、いつもなんやかんや言ってくるから、ここから好きなの選べ」。記者としての懐の深さが、作り出す紙面にも歌の世界にも表れていた。 (編集局次長・阿部 公輔)


 ○…「甲子園の詩」で阿久さんが「最高試合」としていたのは延長18回、3時間50分の熱戦となった79年の箕島―星稜戦。最後を飾ったのは斎藤佑樹と田中将大の投手戦で引き分け、再試合となった06年の早実―駒大苫小牧戦だった。詩を石碑などにしている高校も多い。

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