小西良太郎さん死去 「舟唄」「雨の慕情」「夜桜お七」昭和の名曲プロデュース

[ 2023年5月16日 05:30 ]

亡くなった小西良太郎さん
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 スポニチOBで音楽プロデューサーとして活躍した小西良太郎(こにし・りょうたろう)さんが13日午後6時25分、膵(すい)がんのため、神奈川県の自宅で亡くなった。86歳。音楽担当記者時代から美空ひばりさんをはじめとする人気歌手だけでなく、吉田正さん、船村徹さん、阿久悠さんら昭和歌謡界の重鎮作家らと交友を深め、「舟唄」「雨の慕情」「夜桜お七」などのヒット曲をプロデュースした。晩年は俳優としても活動した異才が静かに幕を閉じた。

 「ベッドでのたうち回りながら原稿を書いて、これで終わりですと自分で締めたかったのでしょう」。小西さんがライフワークとし、遺筆となった音楽業界誌「ミュージックリポート」5月1日号の連載「新歩道橋」最終回を書き上げたのは4月28日だったと玲子夫人は説明する。

 「ボーヤ」と呼ばれる新聞社独特のアルバイトに採用されたのが1957年。正社員となり、音楽担当記者になった63年から小西さんの「歌人生」が始まった。元々歌手志望で、当時の流行歌をそらんじていたほど。レコード会社を中心に音楽業界をかっ歩し、人脈を広げていった。

 なかでも「外弟子」として懇意だったのが作曲家の船村徹さん。作詞家の星野哲郎さんや、国民的作曲家の吉田正さん、盟友の作詞家・阿久悠さんという重鎮たちと特に濃密な関係を築いた。他にも三木たかしさん、市川昭介さん、吉岡治さんら昭和歌謡のオールスター作家の葬儀を取り仕切って、全て見送ったほど。そんな人間関係の中、現役記者時代に八代亜紀の「舟唄」や坂本冬美の「夜桜お七」などのヒット曲をプロデュースする離れ業も見せた。

 一方、野球好きだった阿久さんとの共同企画で、高校野球の試合を阿久さんに観戦してもらい、詩と文章で球児たちを称える異色企画「甲子園の詩」を79年から2006年にかけてスポニチ紙面で展開。数々のドラマを描いた。「女王」美空ひばりさんとは家族ぐるみの付き合い。母の喜美枝さんからも寵愛(ちょうあい)を受けるほどだった。ひばりさんが亡くなった89年6月には、死亡翌日の25日から「不滅ひばり真話」と題した緊急連載を、当時編集局長だった小西さんが1カ月間にわたり執筆。連日話題を集めた。

 2000年の退社後は俳優に転身。「東宝現代劇75人の会」に所属して芝居に挑んだ。川中美幸の劇場公演にも準レギュラー的に出演し舞台を沸かせた。ヒット曲制作現場の舞台裏も知る、貴重な昭和歌謡の評論家として歌番組のコメンテーターとしても活躍した。

 玲子夫人によれば、昨年7月に検査で膵がんが見つかり、闘病していた。通院して抗がん剤治療を続け、6月21日発売の秋元順子の新曲「プラトニック」のプロデュースが最後の仕事になった。4月に足のむくみなどが出たため自宅近くの病院に10日ほど入院。退院後は雄大な海が見渡せる大好きな自宅で療養してきた。しかし、13日に突然発熱し、静かに息を引き取ったという。「最期まで仕事のことを気にしていました。本当に凄い人でした」と異才を称えた。


 ◇小西 良太郎(こにし・りょうたろう)1936年(昭11)10月20日生まれ、東京都葛飾区堀切出身。疎開先の茨城県で育ち、水海道第一高校卒。57年、特別契約社員としてスポーツニッポン新聞社に入り、60年に正社員。63年に文化部に異動。73年文化部長。以後、運動部長、編集局長、常務取締役を歴任。2000年にスポニチ退社。日本レコード大賞審査委員長を7年務め、18年から制定委員。


 ≪コラム52年間で2290回執筆≫
 小西さんがライフワークとして音楽業界誌「ミュージックラボ」にコラム「歩道橋」の連載を始めたのは、同誌創刊翌年の1971年。94年2月末で同誌が廃刊になるまで23年半、約1140回ほど、毎週連載を続けた。日々の交友録や歌手や作品の舞台裏の話や鋭い批評が好評だったこともあり、同年の4月から「ミュージックリポート」という別の業界紙が「新歩道橋」として新たに連載を開始した。当初は月4回、途中から3回となり現在は隔週刊の発行。最終回となった5月1日号まで29年間、1148回の連載を続けてきた。合わせて52年間で2290回近く、同コラムを執筆してきたことになる。

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