【一瞬の夏】国士館・山崎銀治郎マネジャー 心臓病で“転身”縁の下から導いた聖地

[ 2020年8月16日 05:30 ]

2020年甲子園高校野球交流試合   国士舘4―3磐城 ( 2020年8月15日    甲子園 )

<高校野球交流試合 国士舘・磐城>終了後、ベンチ前で整列する国士舘の山崎マネージャー(右)(撮影・坂田 高浩)
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 学生服ではなく、ユニホーム姿で仲間とともに戦った。三塁側のベンチ前。記録員としてベンチ入りした国士舘の山崎銀治郎マネジャー(3年)は、憧れの甲子園で勝利をかみしめた。

 「最後に甲子園で勝って終われた。ここはみんなが頑張らないと来られない場所。今はもう感謝しかありません」

 背番号はない。それでも、山崎は心強い戦力だった。対戦相手の分析にデータ入力。普段の練習時は道具の点検から来訪者の接待まで。仕事は多岐にわたる。春の大会が中止となって磐城のデータは少なく「テレビで試合のハイライト映像とかを見たけど、予想が難しかった」。でも、投打に粘り強い相手に苦戦しながら勝ちきった。「チームで勝って終わろうと言っていた。自分の役割は果たせた気がする」

 転機は1年生の冬。先天性の心臓病「修正大血管転位症」の山崎は年に1度の定期検診で、医師から運動を1年間控えるように言われた。それまで自覚症状もなく、普通にプレーできた野球をやめるか…。選んだのはマネジャーへの転身。チームを陰で支え、永田昌弘監督や仲間からも信頼を得た。この冬に運動再開の許可が下りたが「選手に戻ることは全く考えなかった」という。

 校歌を歌って終わった甲子園。「終わってみれば(3年間は)あっという間だった。一生付き合っていく病気なので油断はできないけど、体は大丈夫です」。山崎は夢の舞台で仲間と戦い、そして確かに勝った。(秋村 誠人)

 ◆山崎 銀治郎(やまざき・ぎんじろう)2002年(平14)12月20日生まれ、東京都足立区出身の17歳。小1から少年野球チーム「西伊興若潮ジュニア」で野球を始め、投手兼捕手。埼玉栄中では投手だったが、右肘を痛めて国士舘では外野手に転向。2年からマネジャーとなる。1メートル69、58キロ。右投げ右打ち。

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2020年8月16日のニュース