内田雅也が行く 猛虎の地<3>梅田新道・久保田運動具店

[ 2018年12月3日 09:00 ]

球団創設前から陰で支えた「スラッガー」創業者 店は野球人のたまり場

開店当初、梅田新道にあった久保田運動具店の店頭(年代不詳)=提供・久保田運動具店=
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 阪神が球団設立に向け、極秘に選手集めを行っていた1935(昭和10)年秋、チームの中心選手として目をつけていたのが松木謙治郎だった。明大卒、日本統治下の満州(現中国東北部)、大連実業団に所属していた左の強打者だった。

 チーム編成に動いていた後の球団常務・田中義一(関大倶楽部理事長)の日記やメモを基に書かれた『タイガース日記』が49年11月1日発行の雑誌『ベースボール・ニュース』にある。松木獲得の秘話があった。<松木には久保田という親友がいた(中略)。この久保田さんが間に入って松木とタイガースとを結びつける縁結びの神様になったのである>。

 久保田信一(1910―87年)である。関西甲種商(現関大一高)から明大に進んだ名遊撃手だった。当時は竹中工務店に勤めながら社会人・全大阪に参加、34年都市対抗では大阪市の初優勝に貢献していた。

 阪神は久保田にも入団を勧誘したが断られ、ならばと編成への協力を申し出ていた。松木は明大の2年先輩だが「親友」と呼ばれるほどの間柄だった。松木が内地遠征の合間、義兄が大阪・桜橋で経営する松尾写真機店に立ち寄るとの情報を得た久保田が勧誘した。

 田中の日記に<久保田君からの話では松木が二年間の給料を全額前渡してくれとのこと><思い切って渡してやらねば結果において逃してしまうかも分からぬ>とある。この当時破格の前渡し契約は直後、若林忠志にも適用していた。球団創設時、松木は最年長28歳、初代主将に就いた。

 久保田は36年5月、大阪・梅田新道に「久保田運動具店」を創業した。ブランド名「久保田スラッガー」で通る老舗83年目のスポーツ用品店だ。

 久保田は顔が広かった。戦前から甲子園大会で審判委員、戦後発足した日本中等学校野球連盟(現日本高野連)発足時から理事を務めた。

 アマ球界ばかりでなく藤本定義、藤村富美男ら歴代阪神監督や根本陸夫らプロ関係者とも交流があった。セ・リーグ会長・鈴木龍二が「冷戦中だから」と日本高野連会長・佐伯達夫との仲介を相談したこともある。

 松木は2リーグ分立後の50年、阪神の監督に就いた。長男で現会長の啓夫(ひろお、73)は「父に連れられ、芦屋のご自宅に出かけたのを覚えています」と、やはり親交は厚かった。相談役だったのだろう。「阪神からよく選手集めへの協力を頼まれたと話していました」

 店は立地が良かった。国道2号線を渡れば北新地の歓楽街。「一杯やる前に久保田に」「久保田に行けば誰かいる」と野球人が集い、行き交う場所だった。=敬称略=(編集委員)

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