【甲子園昔話】真剣に勝とうと思ったら負けちゃった 名電・工藤公康

[ 2022年8月20日 09:24 ]

名古屋電気高校時代の工藤公康投手
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 夏の甲子園も大詰め。準決勝が始まった。ここまで来ると、選手たちも「深紅の大旗」が目の前にちらついてくる。準決勝で思い出すのが41年前、1981年の甲子園大会だった。

 愛知代表の名古屋電気(現愛工大名電)は左腕エース工藤公康を擁して甲子園に乗り込んできた。昔でいうドロップのようなカーブと伸びのあるストレートが持ち味。2回戦の長崎西ではノーヒットノーランを達成。3回戦は延長12回、北陽(現関大北陽)の高木(元広島)との投げ合いとなり中村稔(元日本ハム、プロ野球審判)がサヨナラ本塁打。準々決勝では志度商(現志度)も完封してベスト4に進出した。

 甲子園のお立ち台ではいつも大きな目をクルクルさせてコメントもユニーク。報道陣からカーブについて聞かれると「部屋の天井に向かってボールをスピンかけて投げていたら曲がるようになった」と話して笑顔。そして究極は「早く負けないと夏休みが終わっちゃう。海に行けなくなる。すぐ帰れるように荷物をまとめてるのに」と笑わせた。

 ところがベスト4に進出したことで「ここまで来たらあと2試合。どうせなら優勝して帰りたい」と海はあきらめ、準決勝の報徳学園戦(金村義明がエース)に臨んだが、疲れからか本来の投球ができず1―3で敗退。「真剣に勝とうと思ったら負けちゃった」と残念がった。大会No.1左腕と言われ、ドラフトでは熊谷組に内定も西武が6位で指名。大晦日に当時の根本陸夫管理部長が急きょ名古屋の工藤家を訪れ説得。西武担当記者は大晦日の夜、東京駅に戻ってくる根本管理部長を探して新幹線ホームを走り回ったという話もある。

 工藤はのちに西武の黄金時代を支え、ソフトバンク監督としても日本一に輝いた。甲子園の準決勝の日を迎えるたびに、あの夏のユニークな左腕を思い出す。(落合 紳哉)

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2022年8月20日のニュース