なかにし礼さんとエンターテインメント 分野の壁感じさせぬ才能 演歌からJ―POP、酒好き、女好き

[ 2020年12月25日 06:00 ]

都内の病院で亡くなったなかにし礼さん
Photo By スポニチ

 「北酒場」「石狩挽歌」など数多くのヒット曲を手掛けた日本歌謡界を代表する作詞家で直木賞作家のなかにし礼(なかにし・れい、本名中西禮三=なかにし・れいぞう)さんが23日、東京都内の病院で死去した。82歳。死因は明らかにされていないが、1カ月ほど前に持病の心疾患で入院していた。

 エンターテインメントの世界で多彩な才能を発揮したなかにしさん。作詞家、小説家、演出家、コメンテーターと、分野の壁を感じさせなかった。

 なかにしさんが「大恩人」と呼んだのが石原裕次郎さんだった。まだシャンソンの訳詞家だった1963年、最初の妻と新婚旅行で訪れた静岡・下田のホテルのバーで偶然出会った。「俺の歌を書くぐらいの作詞家になれ」と激励された。その言葉を胸に、流行歌の作詞の道へと進んだ。

 ザ・ピーナッツの「恋のフーガ」、北島三郎の「まつり」といった歌謡曲や演歌から、TOKIOの「AMBITIOUS JAPAN!」といったJ―POPまで幅広く手掛けた。約束通りに裕次郎さんにも多くの詞を提供。87年7月に亡くなる3カ月前、生前最後のシングル「わが人生に悔いなし」が発売。♪長かろうと 短かろうと わが人生に 悔いはない――。短くて濃い人生を生きた裕次郎さんの思いを表現したものだった。

 時代が平成になると、小説家として文学的才能を世に知らしめた。02年の「てるてる坊主の照子さん」は翌03年に映像化され、石原さとみ(34)の主演でNHK連続テレビ小説「てるてる家族」として放送された。特に描写の力は高く、「長崎ぶらぶら節」「赤い月」など映像化作品も多くヒットした。

 私生活は酒好き、女好きで有名だった。銀座でよく飲み、女帝と呼ばれた有名なママとの恋模様は世間で広く知られた。美空ひばりさんと「恋愛関係だった」と冗談交じりに明かしたこともある。

 芸能界の実力者たちとの交友関係も広く、それが新たな仕事にも次々とつながった。

 昨年は、仕事をしたことがなかった矢沢永吉(71)から「今度のアルバムが最後になるかもしれない。最後の歌はなかにしさんに書いてもらいたい」と頼まれ、「いつか、その日が来る日まで…」という曲の詞を書いた。最後の最後まで、言葉での表現に力を注いだ人生だった。

続きを表示

この記事のフォト

2020年12月25日のニュース