中南米出身選手のヒーロー!ロベルト・クレメンテの生涯

[ 2014年5月4日 10:55 ]

伝説の名選手ロベルト・クレメンテ

 現在ではメジャーリーガーの1/4はアメリカ以外の国籍の選手になっている。アメリカ国籍でもルーツはそれぞれであるが、そのような光景は当たり前の認識になっている。しかし、初の黒人選手であるジャッキー・ロビンソンがデビューした1947(昭和22)年当時は、今では考えられないほどの人種差別の壁が立ちはだかっていた。対戦する相手チームだけではなく、チームメイトからも、そしてファンからも嫌がらせを受けたという。

 そして、当時のメジャーリーグは黒人選手だけでなく、中南米出身の選手に対しても門戸を閉ざしており、なかなかアメリカの生活に溶け込むことができなかったという。そんな根拠のない偏見を受ける逆境の中、スーパースターに登り詰めた選手がいた。プエルトリコ出身のロベルト・クレメンテである。

 1955(昭和30)年4月17日にメジャーデビューを果たしたクレメンテは、1972(昭和47)年までの18シーズンをピッツバーグ・パイレーツ一筋でプレー。強肩強打の外野手で4度の首位打者に輝くだけでなく、ゴールドグラブ賞を12回も受賞している。特に、その肩の強さは伝説的で、「ペンシルバニアで投げたボールがニューヨークまで届く」というジョーク混じりの伝説が生まれたほどだった。そして、1970(昭和45)年のワールドシリーズ出場時にはMVPにも選ばれ、ようやく世間がクレメンテの素晴らしさを認めるようになった。

 奉仕活動にも熱心だったクレメンテは、1972(昭和47)年の秋に起きたニカラグア地震の被災者のために救援物資を募る。しかし、その物資が横流しされているという噂を聞き、自ら飛行機に乗りこみ、被災地に飛んでいった。そこでクレメンテに悲劇が起きる。12月31日の大晦日、物資とクレメンテを乗せた飛行機はカリブ海に墜落。38歳の若さで帰らぬ人となり、そのシーズンの最終戦で達成した通算3000本安打が生涯最後の安打となってしまった。

 パイレーツは翌年の1973(昭和48)年の開幕戦を追悼試合とし、さらにクレメンテの背番号21を永久欠番とした。現在も中南米出身のメジャーリーガーたちは背番号21を希望する選手が多く、彼らにとってクレメンテは憧れの選手となっている。

 ドミニカ共和国出身で一時代を築いた強打者、サミー・ソーサ(元カブスほか)や、日本でもロッテで活躍したフリオ・フランコなどはクレメンテに敬意を表して背番号21をつけた。また、メジャーリーグでは毎シーズン、最も社会的な慈善活動を行った選手に「ロベルト・クレメンテ賞」を寄贈。MVPに匹敵する名誉であり、選ばれた受賞者は「どんな賞よりも欲しかった」と口を揃えるほどの賞である。

 ジャッキー・ロビンソンの存在なくして、黒人選手はメジャーリーグに登場することはなかった。さらにはプエルトリコ出身のロベルト・クレメンテら、中南米出身の選手の存在があったからこそ、日本人、韓国人など、他の地域の選手もメジャーリーグで受け入れられ、活躍することができている。その背景には、ジャッキー・ロビンソンやロベルト・クレメンテらの先人たちの苦悩とそれを乗り越えてきた歴史を忘れてはならない。(『週刊野球太郎』編集部)

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