イチローを巡る最後の1日 スーパースターとしては規格外の別れ方

[ 2019年3月22日 14:12 ]

現役引退を表明したイチロー(AP)
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 【高柳昌弥のスポーツ・イン・USA】通算714本塁打を放った元ヤンキースのレジェンド、ベーブ・ルースの現役最後の試合は1935年5月30日。フィラデルフィアで行われたフィリーズとのダブルヘッダーの第1試合だった。

 所属していたのはヤンキースではなくボストンを本拠にしていたブレーブス。ヤンキースは同年の2月に40歳となったばかりのルースを解雇しており、最後の試合では胸に「BRAVES」と記されたユニフォームを着ていた。

 初回、ルースは内野ゴロに打ち取られて凡退。するとそのままセンター方向にあったフェンスをこじ開けて球場を出ていき二度とメジャーリーグには戻ってこなかった。そして6月1日に記者をロッカールームに呼んで引退することを明らかにしている。

 このシーズンの打率は・181。打てないうえに走れないし守れない。かつてのホームラン・キングにもはや居場所はなかった。

 そのルースとともにヤンキースの黄金時代を支えたルー・ゲーリッグの現役最後の試合は1939年6月13日。ルース同様、場所はニューヨークでなかった。体はその後「ゲーリッグ病」と呼ばれることになる筋委縮性側索硬化症(ALS)で弱り切っており、この一カ月前に連続出場記録は2130試合で途絶えていた。打率・143。自らが「もう無理だ」と判断してジョー・マッカーシー監督に記録に終止符を打つことを申し出ていた。

 “アイアン・ホース”と呼ばれた男の最後の舞台はメジャーリーグではない。ヤンキース傘下のマイナー、カンザスシティー・ブルースの新球場のこけら落としで組まれたブルースとのエキシビジョン・ゲームが生涯最後の試合だった。

 それが6月13日で、場所は新球場「ルパート・フィールド」のあるミズーリ州セントルイス。「ファンを悲しませたくない」と訴えたゲーリックは自分の意思を無視する手足を抱えながら一塁の守備につき、猛暑の中で3回に打席に入った。

 結果は二塁ゴロ。観客はヤンキースの背番号4の異変に誰も気が付かなかったというから、その気力と執念はすさまじいものだったのだろう。そして彼はその2年後、37歳でこの世を去った。

 時代を象徴するスーパースターが現役を引退するとき、最後の1日と最後のプレーはえてして本人が思い描くパターンにはならないようだ。

 通算762本塁打のメジャー記録を樹立したバリー・ボンズ(ジャイアンツほか)の最後の1日は2007年9月26日。幸いだったのはパドレスと対戦したこの日の球場がジャイアンツの本拠地「AT&Tパーク(今季からオラクル・パーク)」だったこと。地元のサンフランシスコが最後の舞台となったところがルースやゲーリッグとは異なっている。

 ただし問題がひとつ。この時、ボンズはそれがメジャーとの本当の別れの日だとは思っておらず、結果的に最後の1日になったにすぎないという点でドラマ性を欠いてしまった。

 2006年にボンズの薬物使用を書き連ねた暴露本が出版され、07年1月の尿検査で陽性反応。以後、ボンズはプレーそのものではなく、薬物スキャンダルの主人公として批判と注目を浴び続けた。

 6回裏にパドレスの右腕、ジェイク・ピービーから放った最後の一打は右中間最深部まで飛んだが、結局中飛でアウト。このシーズンのホーム最終戦とあって地元のファンはそれなりに騒いでいたが、球場全体が惜別ムードに包まれることにはならなかった。
 実際ボンズは「まだ引退したつもりはない」と翌シーズンになっても“就職活動”を継続。しかし薬物問題だけでなく、43歳となっていたベテランに触手を動かす球団はなかった。

 NBAのスーパースター、マイケル・ジョーダンもルースと同じように、自身を象徴するチームのユニフォームを最後に着てはいなかった。

 2003年4月16日。このシーズンの最終戦を敵地フィラデルフィアで行っていたが、40歳になっていたジョーダンが着用していたのはワシントンDCに本拠を置いているウィザーズのユニフォーム。二度目の現役復帰で選択したのは新天地でのプレーで、彼にとってブルズではないチームで“三度目の引退”を迎えようとしていた。

 すでにプレーオフ進出の可能性を絶たれていたウィザーズにとっては消化試合。試合は87―107で76ersに敗れた。

 ジョーダンは第4Qの残り2分34秒、敵方であるはずの76ersのファンによる「We want Mike」のユニゾン・コールを受けたあとにコートに再登場。すでに22点差がついていたので、あえてプレーするような状況ではなかったが、この日はそこまで13得点。ジョーダン本人も最後に何か見せ場を作りたかったのだろう。

 しかしレギュラーシーズン通算1072試合目での最後の得点はフリースローによるもの。残り1分45秒にきちんと2本とも成功させたのだが、ブルズ時代から宙を舞い、極限の状況で難度の高いシュートを入れ続けてきた“バスケの神”にとって、ラストプレーは予想もしない?地味なものになった。

 メジャー歴代2位の755本塁打を放ったハンク・アーロンが現役に別れを告げたのは1976年10月3日。42歳の本塁打王は所属するブルワーズの本拠地「ミルウォーキー・カウンティー・スタジアム」にいた。

 相手はタイガース。DHとしてクリーンアップに入っていたアーロンは第1打席で遊ゴロ、第2打席で三ゴロに終わっていたが、6回に巡ってきた生涯最後の打席(通算1万3941打席目)ではタイガースの左腕デーブ・ロバーツから打点付きの内野安打を放ち、ジム・ガントナー監督は一塁ベースにたどりついたアーロンに代走を送った。

 スーパースターにはレアケースのハッピー・エンディング?いや、そうでもないのだ。アーロンはその後、こう語っている。

 「ミルウォーキーでの最後の1日は覚えているよ。バド・セリグ(当時オーナー、その後メジャーのコミッショナー)に会って“僕のことをこれからどれくらいの人が覚えていてくれますかね”と言ったよ。そしてこれからは子どもたちを助けることで自分の名前を覚えていてほしい」

 南部のアラバマ州出身。貧困家庭で育ち、黒人が社会で差別される様子を何度も自分の目に焼き付けてきたのだろう。黒人ゆえに、どんな記録を残そうとも付加価値を持たない…そんな疑心暗鬼な側面が引退時でさえも頭の中にあったようだ。そして子どもたちのために生きるのは、野球ではできなかったことへの償いのような感じにも受け取れる。

 アーロンにとってメジャー人生とは“悔い”を各所に置いてきた長い旅路だった。最後の打席がヒットだったことが彼にとって何か意味を持っているとは思えない。

 さてイチローが現役引退を表明した。日本人の野手がメジャーでも通用することを最初に証明したパイオニア。しかも年間最多安打など歴史に残る記録も樹立し、海の向こうから日本を沸かせてきた。

 東京ドームでの2試合は納得のいく結果ではなかっただろう。アスレチックスとの2試合でヒットは打てなかった。それでもこれまでのスーパースターとの“別れの日”と比べると何かが違っていた。

 マリナーズのユニフォームは彼が最後に着ていたかった、あるいは着ていなければいけないユニフォームだったはず。そこがルースやジョーダンとは状況が異なっている。公にはしなかったが「これで引退する」と心に決めて最後の試合に臨んだこともボンズやゲーリッグとは違う。

 45歳でありながら運動能力が衰えたとも思えない。最後の打席では遊ゴロ。しかし遊撃手のマーカス・セミエンがボールをわずかにジャッグルしたあとに送球すると、イチローをアウトにするタイミングは間一髪となっていた。「本当はセーフにしたかったんだよ」。私には一塁の塁審がそう言いたそうな表情に見えた。記録上はヒットではないが、その脚力は秀逸だった。見せるべきものを見せたという点で、これもジョーダンのラストプレーとは性質を異にしていた。

 試合後の会見でイチローは「後悔などあろうはずがありません」と語っている。とてもすがすがしい表情だった。やがてこの日を昔話として語るときも、その思いは変わらないだろう。

 選手もファンも、そしてたぶんテレビで見ていた人たちも、まだ「引退」という言葉を口にしていないイチローの心を全員が見抜いていた。だから帽子をとって声援に応えるその姿が何を意味しているのかを各自が心の中で理解していた。

 最後の舞台は故郷。あるべきユニフォームを着て、最後のプレーで自分の能力の片りんをのぞかせて終わる。そして目の前には大勢のファン。しかもアイコンタクトだけでお互いの気持ちがわかりあえる瞬間が訪れる…。イチローは「死んでもいいという気持ちはこういうこと」と語ったが、おそらくこれは現役に別れを告げるプロセスの理想型なのだ。

 さてルースたちがイチローの最後の瞬間を見たらどう思うだろうか?2019年3月21日。3090安打目はなかったが、そんな記録よりもはるかに大きな記憶が残った1日になった。私事ながら、平成という時代の最後にこんな原稿を書けたことに感謝したい。たぶん私も彼が積み重ねたヒットに背中を押され続けた1人だったと思う。

 ◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には8年連続で出場。フルマラソンの自己ベストは4時間16分。今年の北九州マラソンは4時間47分で完走。

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