矢沢永吉が引き上げた「ロックに市民権」 ライブ至上主義貫き年間120本以上のステージ

[ 2022年7月12日 11:30 ]

矢沢の金言(5)

77年、武道館で「雨のハイウェイ」をギターの弾き語りで披露する矢沢永吉
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 「いつかは武道館」――。今も若手のロックミュージシャンが夢を語る際に出てくる定番。昭和に生まれたこの言葉が、令和の時代になっても色あせない理由に、矢沢永吉の存在は大きい。

 この言葉のポイントは、夢がミリオンヒットではなく、一つの場所であること。この“武道館神話”を構築したのが矢沢だ。それは彼が言い放った「BIGになる」というサクセスストーリーが、ライブ会場が文字通り「BIG」になっていくプロセスと重なっていたことによる。

 デビュー前のバンド時代のナイトクラブから始まり、ライブハウスや地方の公民館などの小ホール、日比谷野音や大都市の大ホールを経て、1万人以上を収容する日本武道館を制覇。この出世の階段が、そのままロック界の成功の進路として“体系化”された。

 ダメ押しは、憧れだった武道館をゴールとせず、翌年に当時の最大級4万人余を動員する後楽園スタジアム公演を成功させたこと。著書「成りあがり」は100万部を超えるベストセラーとなり、芸能人の長者番付1位に。名実ともに頂点に立ったことで、武道館ならぬ“矢沢神話”がロック界にとどまらない「成功のメソッド」となったのである。

 矢沢のもう一つの功績は、ロックを日本で初めてビッグビジネスにしたことだ。76年末に「武道館を超満にさせる」と宣言した名古屋公演。矢沢はこの時「この業界、努力しないヤツが多い。お前らホントにロックを定着させたいって根性持ってんなら、山三つ越えて聴かせたことがあんのか、自分のナマの声を!東京や大阪の都会でやるのはバカでもできるわ」と、当時のロック界を痛烈に批判。全国を細かく巡ってロックのナマの興奮を届けるライブ至上主義を貫き、年間で120本以上のステージを敢行。誰にも頼らず、自身の力でロックが市民権を得るところまで引き上げた。

 いずれも、矢沢の有言実行に集約される。夢に向かう時、湧き上がる「欲望」も「反骨」も、元来の闘争本能から来る「攻撃」も、彼の中では密着しており、どれか一つが反応すると全部が刺激される。そして「臆病」というレーダーが最後にジャッジし、吠えまくりながら自分をけしかけるのだ。この性(さが)に理由はない。

 猛暑の今夏、矢沢が国立競技場で初の有観客ライブを行う。72歳のロックシンガーが2日間で約12万人を動員する前代未聞の挑戦は、理屈抜きの性だろう。人はこれを「野性」と呼ぶ。(阿部 公輔)

 ≪ビートルズきっかけ 大物バンドの定番に≫日本武道館は1966年のビートルズ来日公演をきっかけに、シカゴ、レッド・ツェッペリンらの大物バンドが初来日公演の会場に選んだことで定番化。ディープ・パープルの武道館ライブはアルバム化され、中でも78年のチープ・トリックのライブ盤は海外で大ヒット。武道館の名前は世界に広がり、海外アーティストの憧れの場所にもなった。エリック・クラプトン(77)は特にお気に入りで海外勢最多の通算96回も公演。

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