矢沢永吉「武道館は成し遂げたんじゃない。ここから新たなスタートを切ったんだ」

[ 2022年7月12日 11:30 ]

矢沢の金言(5)

77年8月、初の日本武道館公演の本番前、楽屋でリーゼントをセットした矢沢永吉。肩に掛けたタオルは「E.YAZAWA」のデザインではなくスヌーピーの絵柄なのが印象的だ
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 デビュー50周年を迎えた日本ロック史上最大のスター、矢沢永吉(72)が激動の人生を自らの語録で振り返る大型連載「YAZAWA’S MAXIM 矢沢の金言」(毎週火曜日掲載)。第5回は矢沢を象徴する「日本武道館ライブ」に初めて挑戦した際の名言。人生で成功した時に、必要なものは何か――。その金言も出てきます。(構成・阿部 公輔)

 日本武道館は、俺の「夢」だった。ロックで成功しろと教えてくれたビートルズが、日本で唯一演奏した会場。憧れのシンボルでした。

 「ワンマンで武道館やる。絶対“超満”にしてみせる」と宣言したのは屈辱の佐世保からわずか1年後。なんでこんな生意気な言い方したかというと、当時は日比谷野音は日本人、武道館は外国人のアーティストみたいなことが定着していた。だから言ったのよ。「前からシャクだった。なんで外タレばかりなんだ。日本の武道館だろ」って。

 確かに、日本のロックは向こうのコピーから始まった。だから憧れがスタート。でも、憧れだけだったら俺は広島から夜汽車に乗って出てこなかった。だってビートルズが教えてくれたのは音楽で成功することだから。

 1977年8月26日、武道館の観客数は1万3211人。入場できなかった約2000人が会場の外で、漏れてくる音に熱狂した。うれしかったね。パツンパツンの超満です。外タレじゃなくたって、俺たち日本のロックだってワンマンでやれるんだ!って。この時からジャパニーズロックの自負は俺の中に生まれていたのかもしれない。

 だから「武道館は成し遂げたんじゃない。ここから新たなスタートを切ったんだ」と言って、翌年にもっとデカい後楽園スタジアムに挑戦。一気に4万人以上を動員した。「時間よ止まれ」のNo・1ヒットもあり、翌79年にはナゴヤ球場でもライブをやった。長者番付でも1位になり、日本でロックがビッグビジネスになることを初めて証明したんだ。

 俺はバンド「キャロル」でデビューした時から、ずっと言ってきた。「メジャーじゃなきゃダメだ」って。当時のロックは客にキャーキャー言われて喜んでいるようなファッションだった。そして業界の連中が、楽曲の権利も何も知らない俺たちを都合のいいように利用していた。

 だから、吠えまくったんだ。「俺の取り分、どうなってんだ」って。だからソロデビューした時には自分で出版会社を立ち上げ、自分の作った楽曲を自分で管理できるようにしていた。

 一気にアーティストとしての階段を駆け上がっていく中、ロックという音楽自体も日本でメジャーになり、曲の権利を持った俺自身も、誰にも頼らず自力で新しい扉を開けられるようになった。人生は「成功と自立」がリンクしていなければダメだ。誰かに頼ると、そこが弱点になるから――。

 ライブはその後も、東京ドームや日産スタジアムなど5万人を超えるところでもやってきた。でも、やっぱり武道館は特別です。360度ぐるりと囲んだ客席はステージと本当に近く、あの臨場感はどこにもない。元々円形の武道場だから、音の跳ね返りが凄かったわけだけど、エンジニアの努力で音だってどこよりも良すぎじゃねえのって感じで。この前、50周年ライブをやる国立競技場をのぞいてきましたけど、野外だけど臨場感ありそうで、ちょっと似てるところありますよ。

 45年間、惚(ほ)れて惚れ抜いた矢沢の武道館。そこには「日本のロックの新たな扉」をともに開いてきた“相棒”って意識もある。ほぼ毎年ライブを年末にやって通算で146回。「永ちゃんの歌、聴かないと年越せないよ!」って声。矢沢、バッチリ受け止めています。45年前は外タレばっかでシャクだったけど、今はコロナにいつまでも邪魔されるのもシャクなんで。そろそろ通算150回、キメないとね。

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