【高校野球 名将の言葉(9)池田・蔦文也監督】「みなさんお願いします。日本一の監督にしてください」

[ 2022年8月13日 08:10 ]

ノックバットを振る池田・蔦監督
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 悲願の初優勝へ、池田の蔦文也監督が動いた。1982年夏の甲子園大会。準決勝で東洋大姫路を4―3で下した試合後のことだ。夕食を控え、宿泊していた網引旅館の食堂に選手らを集めると、次の言葉を発した。

 「みなさん、よろしゅうお願いします。私を日本一の監督にしてください」

 苦い記憶があった。過去、甲子園では74年春と79年夏の2度、決勝に進出。事前に選手をリラックスさせようと「旗は2本あるけん。どちらかもらえるから、のびのびやれ」と話したが、それがまずかった。いずれも接戦の末に惜敗。しかも、準優勝旗があるのは選抜だけで、蔦監督としても3度目の今回こそは何としても勝ちたかった。当時2年生で、切実な声を聞いた江上光治は「(2度の準優勝で)勝負は最後に勝たないとアカンと痛感されたのではないでしょうか」と推察する。

 蔦監督は、金属バットの特性を最大限に生かすべく、筋力トレーニングを積極的に行うなどパワー野球を推奨。後に「やまびこ打線」と呼ばれた強力打線をつくりあげた。エース畠山準、水野雄仁らを擁した82年夏も準々決勝で荒木大輔のいた早実を14―2で圧倒するなどすさまじい破壊力を高校野球ファンに見せつけていた。

 “懇願”翌日に行われた広島商との決勝戦は初回2死無走者から6点を奪う猛攻を見せるなど12―2の圧勝だった。「先生の言葉を聞いて、選手全員が絶対に勝たなアカンと感じたはずです」(江上)と効果はてきめんだった。71年夏の初出場時に「山あいの町の子供たちに一度でいいから大海を見せてやりたかったんじゃ」と発言してから11年後の初優勝だった。翌83年選抜も制し夏春連覇。3連覇こそ逃したが、86年春も優勝するなど「攻めダルマ」の異名を取り、一時代を築いた。

 ◇蔦文也(つた・ふみや)1923年(大12)8月28日生まれ。徳島商では甲子園に3度出場。同大、社会人野球を経て、プロ野球の東急フライヤーズ(現日本ハム)に入団したが1年で退団。51年に池田高社会科教諭として赴任し翌52年から野球部監督を務めた。71年夏に甲子園初出場し92年に勇退するまで春夏合わせ3度優勝するなど通算37勝。2001年4月28日に77歳で死去。

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