【あの甲子園球児は今(9)熊本工・星子崇】「奇跡のバックホーム」無念のタッチアウト…それも貴重な財産

[ 2022年8月13日 08:00 ]

96年、第78回全国高校野球選手権大会決勝延長10回1死満塁、熊本工・本多の右翼への飛球を松山商・矢野が好返球し、三塁走者・星子(右)はアウトに(捕手・石丸)
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 悲劇の主人公になったあの日からいくつもの夏が過ぎた。熊本市内でスポーツバー「たっちあっぷ」を経営する星子崇は「もう26年前になりますか。今年は初戦で熊本と愛媛が対戦(九州学院―帝京五)しますね」と当時を振り返りながら話した。

 1996年夏の甲子園決勝は、熊本と愛媛の古豪同士の激突となった。熊本工は川上哲治(元巨人)がエースだった37年夏以来の決勝進出。熊本勢の初優勝を懸け、夏5度目の優勝を目指す松山商に挑んだ。熊本工は2―3で迎えた土壇場の9回に伝統校で1年生ながらレギュラーをつかんだ沢村幸明が同点ソロを放ち、試合は延長に突入した。

 延長10回、先頭打者だった星子が二塁打で出塁した。「バッティングには自信がありました」。星子にとって大会8本目の安打だった。打率・571と打ちまくった。それなのに打順は8番。新チーム結成時には4番を打っていたが、田中久幸監督(故人)との確執があり、打順を下げていった。だが、この決勝ではチームの勝利だけに集中していたという。

 星子は次打者の犠打で三塁へ進む。ここで松山商は敬遠の四球2つで満塁策を取り、さらに右翼の守備固めに強肩の矢野勝嗣を送った。1死満塁から熊本工の3番・本多大介が放った一打は右翼へ飛んだ。テレビの実況者が「文句なし!」と叫んだ当たり。犠飛には十分な飛距離と思われたが、強風で定位置付近まで戻された。タッチアップした星子は懸命に駆けたが、矢野のダイレクト返球で無念のタッチアウト。「奇跡のバックホーム」として語り継がれていくプレーに甲子園がざわめいた。

 星子は試合中から風に注意しながらプレーしていた。「ライト方向からホームへ向かって来ていた風に警戒していました。なるべくライトには打たないようにしました」。延長10回に先頭で放った二塁打も左打席から逆らわずに左中間へ打ち返した。「タッチアップもフライング気味にスタートを切ったんですが…」。サヨナラ機を逃した熊本工は延長11回に3点を勝ち越されて、深紅の大優勝旗に手は届かなかった。

 熊本に帰ると「回りこめばセーフだったのでは?」など、心ない言葉も浴びた。それでもすぐに気持ちを切り替え、野球を続ける決意をした。熊本工を卒業後、社会人野球の松下電器(現パナソニック)へ。けがもあり2年半プレーして現役を引退し、故郷へと帰った。

 そして、激闘から17年後の2013年に運命の再会を果たす。愛媛でテレビ局に勤務していた矢野が旅行で熊本に来た際に星子のもとを訪れた。当時の思い出を語り合いながら酒を酌み交わした。2人は熊本地震が起きた16年には復興支援のためのチャリティーマッチを企画。今も親交は続いている。

 「松山商とのつながりは、優勝していたらなかったのかなと思っていて。あの試合があったから、いろいろな人に出会うこともできた」

 心の底から悔しがったあのプレーは、星子にとって貴重な財産になっている。=敬称略=(森 寛一)

 ◇星子 崇(ほしこ・たかし) 1978年(昭53)8月22日生まれ、熊本市出身の43歳。小学4年から野球を始める。熊本工では2年秋からレギュラーとして活躍。高校卒業後は松下電器(現パナソニック)で2年半プレーする。2014年に高校野球に特化したスポーツバー「たっちあっぷ」(熊本市中央区花畑町13の49 第3RIKIビル10階、(電)096―355―1281)を開店。店内には多くのユニホームが多く飾られ、「奇跡のバックホーム」の写真パネルも展示されている。

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