ロッテ・佐々木朗希の大船渡高校時代恩師 登板回避させたあの夏に戻れても「同じ決断を下します」

[ 2022年5月31日 05:30 ]

2019年7月、岩手大会決勝の9回、国保監督(右)と話し込む大船渡の佐々木朗希(左)(撮影・西海健太郎)
Photo By スポニチ

 ロッテ・佐々木朗の大船渡高時代の監督である国保陽平氏(35=現・同校野球部部長)が、スポニチ本紙の取材に応じた。教え子の3年目の飛躍に際して思いを語るとともに、論議を呼んだ3年前の岩手大会決勝の登板回避について、現在の心境も口にした。(取材・構成 柳内 遼平)

 史上最年少での完全試合、164キロ連発など、「令和の怪物」は驚きの成長曲線を描いている。しかし、恩師の国保氏は「サイズもあって(高校時代は)骨も出来上がっていなかった。可能性はあると思っていました」と穏やかな笑みをたたえながら話した。昨年末に母校で自主練習を行った佐々木朗と再会。「“40歳くらいまでやりたい”っていつも言っているみたいなので、40歳になっても同じ球をコンスタントに投げ続けられるようにと願っています」と期待を寄せた。

 19年7月25日、花巻東との岩手大会決勝で故障防止を理由に佐々木朗を起用せず、2―12で敗戦。「もし、あの日に戻れるなら?」の問いに国保氏は即答した。

 「同じ決断を下します。3年間を一緒に過ごしてきて、積み重ねてきたものをひっくるめて判断しました。当時のベストの判断なので同じ状況にタイムマシンで戻っても、その状況は変わらないので同じ決断が下されるということです」

 ただ、こうも付け加えた。「決勝で投げさせなかったから今、活躍しているという直接の因果関係はないと思う。それはそれとして、今、力強い球をいっぱい投げられていることはとても素晴らしいこと」。投げさせた場合はどうだったか。それを誰も知ることはできないが、右腕は今季、大きく花開いた。

 現在、大船渡では弟の怜希(2年)が「1番・遊撃」を担っている。春季県大会で8強入りに貢献して今夏のシード権を獲得。3年前に届かなかった聖地に向け、国保氏は「一つ一つ勝っていけば甲子園が見えてくる。そこに向けて選手を頑張らせたい」と新たな夏を見据えた。

 ◇国保 陽平(こくぼ・ようへい)1987年(昭62)3月14日生まれ、盛岡市出身の35歳。盛岡一(岩手)から筑波大に進学。卒業後はクラブチームや米独立リーグで主に外野手としてプレー。帰国後、17年に大船渡野球部の監督に就任した。現在は部長を務める。

 ▽佐々木朗の19年夏の登板回避 大船渡のエース兼4番として、岩手大会準決勝まで4試合に登板。計435球を投げ、2完封含む3完投をマークしたが、疲労蓄積やコンディション面を考慮した国保監督の判断で、花巻東との決勝は登板回避。打者としても最後まで出番はなく2―12で大敗し、同校35年ぶりの甲子園出場の夢が途絶えた。国保監督は、本人には当日朝に伝えたといい「3年間で(この試合が)一番壊れる可能性があると思った。故障を防ぐため」と説明した。

続きを表示

2022年5月31日のニュース