元仙台育英監督・竹田利秋氏 金足農、9回無死満塁での決断 指揮官の勇気を称えたい

[ 2018年8月19日 09:23 ]

第100回全国高校野球選手権記念大会第14日・準々決勝   金足農3―2近江 ( 2018年8月18日    甲子園 )

大越(左)を擁した89年、竹田監督率いる仙台育英は帝京に惜敗し準優勝に終わる
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 【名将かく語りき〜歴史を彩った勝負師たち〜第14日】東北、仙台育英で甲子園通算30勝を挙げた竹田利秋氏(77=国学院大野球部総監督)が、準々決勝の金足農―近江戦を観戦した。逆転サヨナラ劇を生んだのは、中泉一豊監督(45)の勇気と評価した。また、全員が地元・秋田県出身という「オラが町のチーム」にも着目した。

 スクイズで全得点を挙げた中泉監督の勇気を称えたい。9回無死満塁からのツーランスクイズ。満塁だと本塁でフォースプレーになるからサインを出しづらいのに迷わなかった。斎藤君の三塁線のバントも見事だった。最初のスクイズ。5回1死三塁で2―0の3球目を佐々木夢君はファウルにしてしまった。普通なら次は様子を見る場面。だが、ここもためらいはなかった。

 公立校で4強、しかも全員秋田の選手という点は特筆すべきだ。昨今は野球留学が活発だが、県内選手でチーム編成し、試合ごとに力をつけている。元来、秋田人は芯が強いけど、このチームに特長が表れていた。

 私は半世紀以上、指導者を経験してきた。野球が上手になるのは取り組む意識だけでなく、学生生活にも相通じる点があるはず。同じ高校生なら人間力を高めればいい。つまり、どの学校より意識を高く取り組めば結果は自然と出ると信じてきた。

 私が東北野球部のコーチだった65年頃、冬季に使用する室内練習場の必要に迫られた。そこでゴミ捨て場だった場所を手作業で整地。だが樹齢20年以上の大松を取り除かないといけない。根元をスコップで突いても、とがった先が丸くなるだけ。そこへ当時、高校総体王者の自転車部員が手伝ってくれた。「おまえたちは使えないぞ」と言っても「いいんです。足腰鍛えられますから」。渋々作業する野球部とは違う。日本一へ目標設定の大切さ。これがスタートだった。

 監督として甲子園に初出場した68年夏、組み合わせ抽選会で驚いた。カードが決まるたび東北・北海道勢は静まり返るのに、西日本勢は勝ったとばかり大騒ぎ。これでは駄目。劣等意識を何とかせねば、と痛感した。69年青森・三沢、71年福島・磐城の甲子園準優勝でその劣等感も消えつつあった。東北も佐々木主浩(元横浜)を軸に85年夏、全国8強となったが、帰郷した報告会で当時宮城県知事から突然、切り出された。「今度は仙台育英で真の高校野球を教えてくれ」。私は一区切りつけるつもりだったが「宮城に残れ」と譲らない。私も20年間の指導で自信があった。

 85年10月に仙台育英に赴任。ただ、東北のときとは違ったやり方で接した。(1)猛練習はしない(2)大声を出さない。ところが、当時の主将が「何であの人からノックを受けるのか」と反発。そこから全員と対話を重ねた。お互いユニホームには着替えてもグラウンドに出ない日もあった。私の持論は監督と選手が同じ方向を向き、呼吸が合わないと駄目。決勝で帝京に敗れたとはいえ、大越基(元ダイエー、現早鞆高監督)がエースだった89年はそんなチームだった。

 幸い、年頭の「竹友会」には大勢の教え子が集まってくれる。さまざまな後悔こそあるが、参加者の笑顔を見ると少しだけホッとする。(国学院大野球部総監督)

 ▽竹友会 毎年1月、竹田氏の誕生日を祝うため東北、仙台育英、国学院大の教え子が集まり、200〜300人が当時の指導や思い出に花を咲かせる。楽天・嶋、日本ハム・矢野、元ロッテ・渡辺俊らが出席。

 ◆竹田 利秋(たけだ・としあき)1941年(昭16)1月5日生まれ、和歌山県出身の77歳。国学院大卒業後、銀行に勤めたが、65年から東北のコーチを務め、68年1月同校監督に就任し、同年夏甲子園初出場。85年夏、佐々木主浩を擁して全国8強。同年秋に仙台育英監督に就任。89年夏、大越基(元ダイエー)を軸に全国準優勝。96年に国学院大野球部監督となり、10年同大総監督に。甲子園通算30勝27敗。

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2018年8月19日のニュース