矢沢永吉 少年の日 屈辱と怒りの決意「絶対BIGになってやる」

[ 2022年6月28日 11:30 ]

デビュー50周年 矢沢の金言(3)

故郷・広島の高校時代の矢沢永吉。修学旅行専用列車「わこうど」号の先頭で。胸には大きな夢を抱いていた
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 デビュー50周年を迎えた日本ロック史上最大のスター、矢沢永吉(72)が激動の人生を自らの語録で振り返る大型連載「YAZAWA’S MAXIM 矢沢の金言」。第3回は今では成功を夢見る若者が放つ言葉の代名詞となっている、矢沢語録の決定版。そんな矢沢を女手ひとつで育てたおばあちゃんの“金言”もどうぞ。(構成・阿部 公輔)

 「絶対BIGになってやる」。そう誓ったのは小学生の時。クリスマスイブでした。

 今回の連載は新聞ですから、僕の半生を詳しくは知らない人もいると思うので、かつて「成りあがり」(1978年発表)という本でも触れた部分で簡単に当時を振り返ります。

 親父は俺が小学2年生の時に死にました。原爆の後遺症でね。おふくろは俺が3歳の時にいなくなったから、8歳で孤立無援。だから父方のおばあちゃんに育てられたんです。

 一番のごちそうは、溶き卵に水としょう油とか混ぜてふかした茶わん蒸し。誕生日には卵を2つにしてくれて「永吉、ニワトリ2羽だと思って食え」って。心まで貧しくなるなという、おばあちゃんの教えはその後の僕の人生でずっと生き続けました。

 そして迎えたクリスマスイブ。金持ちの息子に「お前こういうの食えないだろ」って、ケーキをちぎって投げられた。でも僕はやり返さず、そいつがいなくなった後で頬っぺたについたクリームをなめたんです。相手に殴りかかるより、クリームをなめたいと思った自分と、この境遇に次第に怒りが湧いてきた。だから自分に誓った。「絶対、金持ちになってやる」と。

 いま振り返ると、そんな怒りを「BIGになってやる」という前向きな原動力に転じることができたのは“心まで貧しくなるな”と教えてくれた、おばあちゃんのおかげだったと思うんです。小学生で新聞配達を始めて、中学で牛乳配達。高校時代は映画館のフィルム運び、埠頭の砂利運び、造船所のシリンダー磨きといろんなアルバイトやりましたけど、どんなキツイ仕事も苦にならなかったですから。

 「BIGになる」って夢は、皆さんには抽象的に聞こえると思うけど、当時の自分には十分すぎるほど明確だった。誰からもなめられない人間になりたい、自分で何でもできる男になりたい、誰にも負い目なく“開けたい扉”を自分自身の力で開けられる人になりたかった。

 それにはお金も必要です。だから、お金をもうけたいって言っていた。それだけのことで、夢でも何でもない。

 そういえば、おばあちゃん、いつも僕にこんなことも言ってた。

 「永吉、お前な。人間なにを食べても死なないから。でも寝る時だけは、ちゃんといい布団で寝るようにしろよ」

 どんな意味か、当時はよく分からなかったんだけど、何となく分かるんだよね、今は。どんな生き方をしてもいい、でも自分を守るのは最終的には自分しかいないんだよと。自分の家族を守るのは自分しかいないんだよと、そんな意味に感じてきてね。要は「好きなように生きろ。でも安心できる場所だけは、ちゃんとつかめよ」ってことだったのかもしれないね。

 そんな、おばあちゃんが旅立ったのは、俺が1972年末にバンド「キャロル」でデビューした頃。それからたくさんのお金も手にしたしサクセスもしたけど、その約束の場所にどこまで近づけたのかなと、思うことも多い人生です。

 でも、今は大切な家族がいる。守りたい会社とスタッフがいる。そしてコロナ下なのに50周年を祝ってくれる21万人の大観衆が待ってくれています。おばあちゃんとの約束の地に、矢沢、やっとたどり着けたのかな…。

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