【あの甲子園球児は今(12)前橋育英・飯島大夢】手負いのアーチから5年…また、野球が楽しくなった

[ 2022年8月16日 07:45 ]

現在は草野球チームに所属し、再び野球を楽しんでいる飯島大夢(本人提供)
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 もうこの先、野球ができなくなっても構わないと思った。17年夏。前橋育英・飯島大夢(ひろむ)は主将として、4番として、3季連続の甲子園出場を果たした。そして山梨学院との1回戦、初回に先制の左前適時打を放つと、3回には適時二塁打。さらに7回の第5打席、左中間へ高校通算18号の本塁打を打った。

 「その瞬間は痛いっていうのは全くなかった。今振り返っても、人生で一番野球が楽しかった」。この試合、3安打3打点の活躍を見せた飯島の左手首はテーピングが施された。5月の関東大会で死球を受けて骨折。夏の大会を迎えても完治はしなかった。「正直、悔しかったし、落ち込みました」。それでも練習や予選では工夫を凝らし、3度目の聖地に立った。「(荒井直樹)監督には自分から“出たい”と言いました。これで野球人生終わってもいいって本気で思ったので」。痛み止めを打っての強行出場だった。

 群馬県館林市出身。86年春の選抜に関東学園大付のメンバーとして出場した父・公男さんの影響を受け、幼少期から甲子園に恋い焦がれた。好きなものに打ち込めば、いずれ誰かが気づいてくれる。中学3年時、才能を見込んだ前橋育英・荒井監督から声を掛けられた。「(13年夏に優勝した)前橋育英は一番甲子園に近い学校だと思った。迷いはありませんでした」。寮生活を送りながら、今まで以上に野球に打ち込んだ。毎日が夢中で、楽しかった。

 高校卒業後は、全額免除の特待生として日体大に進学した。「でも、ケガで調子が上がらないし、何となく打ち込めなくて…」。自ら退学の道を選んだが、野球への未練は残った。「他の道を探していた時、ふと群馬ダイヤモンドペガサスのホームページを見たんです。そしたら、募集要項みたいな項目を見つけました」。骨折アーチで話題を集めた飯島の名前は、地元・群馬でも有名だった。実技試験はなく、特別合格で入団。しかし、所属したのはわずか1カ月足らずだった。

 「うまく説明できないんですけど、楽しくなかった。楽しく野球ができないならばもういいや、って思っちゃって…」

 その後は地元に戻り、職を転々とした。ネット通販の配達員、土木作業員などに従事したが、どれも長続きしなかった。「野球も嫌いになっちゃって。2年間くらい、プロ野球も高校野球も見ない時期がありました。見ないどころか、話をされるのも嫌で。野球の話を振られても“ほんとやめて”って冷たく対応してました」。中学時代に所属した館林ボーイズの1期先輩に現ロッテの小川龍成、前橋育英の同期には現ヤクルト・丸山和郁。一緒に汗を流していた仲間は、プロ野球の世界にいる。もう、野球は嫌いだった。

 転機はふと訪れる。それまでどんな誘いも頑なに断っていた飯島を、父が草野球に誘った。「見に行くだけでいいからって言われて。それまでは全然気乗りしなかったのに、あの時は何でだろう。自分でも分からないです」。そこには、楽しそうに野球をする人々がいた。「行ったらもう、早いんです。背番号は何がいい?とか、こっちは全然その気はないのに」。初日はそのまま帰った。でも野球を遠ざけたい気持ちは薄れた。その後も何度か足を運んだ。「そのうち、ユニホームのサイズとかも聞かれて。強引過ぎますよね」と笑うが、その屈託のなさが飯島の心の壁を崩したことは間違いない。2年間離れていた分、体は重くなっていたが、不思議と野球が嫌ではなくなっていた。

 現在は、館林ボーイズ時代の恩師が営む会社で、運送のバイトとして働く。「今度、ピッチャーにも挑戦するんです。体も最初よりはずっと良くなりました」。当時、骨折での出場は賛否を呼んだ。それでも自分で決めたこと、後悔は一つもない。飯島大夢、23歳。最近また、野球が楽しくなってきた。=敬称略=(金子 しのぶ)

 ◇飯島 大夢(いいじま・ひろむ)1999年(平11)6月29日生まれ、群馬県館林市出身の23歳。小1年から渡瀬クラブで投手兼遊撃手として野球を始め、中学時代は館林ボーイズで関東大会8強。前橋育英では2年春の関東大会からベンチ入り。同年夏は背番号5で初の甲子園出場。3年時は主将として春夏連続出場を果たした。卒業後は日体大に進学も中退。BC・群馬に特別合格したが、開幕前に自ら退団を申し出た。現在は地元・館林の草野球チーム「ブルータス」に所属。デビュー戦で本塁打を放った。好きな言葉は執念。右投げ右打ち。

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