近藤昭仁氏 死去 80歳 元横浜、ロッテ監督 大洋ルーキー時代に日本SではMVP

[ 2019年3月28日 05:30 ]

亡くなった近藤昭仁氏
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 横浜(現DeNA)、ロッテで監督を務めた近藤昭仁(こんどう・あきひと)氏が27日午前1時23分、敗血症性ショックのため川崎市内の病院で死去した。80歳だった。大洋入団1年目の60年に日本シリーズMVP。ヤクルト、西武、巨人のコーチなどを歴任し、ロッテ監督時代の98年にはプロ野球記録の18連敗を喫して「七夕の悲劇」と呼ばれた。

 小柄な体の中に、厳しさと優しさを併せ持った近藤氏が天国に旅立った。長くパーキンソン病などを患い、今年2月25日に誤嚥(ごえん)性肺炎で入院。今月9日には34・8度の低体温になるも、そこからいぶし銀だった現役時代のプレーのような「粘り腰」を見せた。看護師から「スーパーじいちゃん」と呼ばれたが、この日未明、家族に見守られて静かに息を引き取った。

 近藤氏は60年に大洋入団。三原脩監督に見いだされて同年球団初の日本一に貢献した。「魔術師」と呼ばれた名将の野球は「ときに応じて一流をしのぐ超二流」の選手を必要とした。俊足で勝負強く、バントも守備も巧みな近藤氏は、まさに「超二流」だった。コーチとしても西武・広岡達朗監督、巨人・藤田元司監督を支え、「3人の名将に巡り合えたことは誇り」と野球人生の勲章にしていた。

 大洋が球団名を横浜に改称した93年に初代監督に就任。谷繁、石井琢ら若手を積極的に起用した。98年に38年ぶりの日本一に輝いたチームの土台を築いたのが近藤氏。しかし自身が指揮を執った3年間は結果を残せず、「もう一年勝負したかった」と悔やんでいた。

 ロッテ監督時代の98年には、プロ野球ワーストの18連敗を喫した。連敗記録を更新する17に伸びた7月7日のオリックス戦では、9回2死から黒木が同点弾を浴びて号泣。「七夕の悲劇」と呼ばれた。同9日に連敗ストップ。近藤氏は「選手に非常につらい思いをさせた」と漏らした。

 横浜、ロッテで指揮を執った計5年間は全てBクラス。両球団とも戦力的に厳しかったが、起用した若手が後に花開く。横浜では鈴木尚、ロッテでは福浦が首位打者を獲得。素質を見抜き、信じて使い続けた信念の人でもあった。

 ◆近藤 昭仁(こんどう・あきひと)1938年(昭13)4月1日生まれ、香川県高松市出身。高松一、早大を経て60年に大洋に入団。チームが球団創設以来初の優勝を果たした1年目に新人としては史上初の日本シリーズMVPに輝く。大洋一筋で14年間プレーし、通算1619試合で打率.243、65本塁打、360打点。引退後は大洋、ヤクルト、西武、巨人でコーチを歴任。横浜、ロッテで監督を務めた。妻は女優・北沢典子の由紀子夫人。

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