内田雅也が行く 猛虎の地<10>東京・神楽坂「田原屋」

[ 2018年12月13日 09:00 ]

初代4番と女優の「愛」

東京・神楽坂のレストラン「田原屋」があった辺り。現在はふぐ料理店になっている
Photo By スポニチ

 松竹歌劇団第1期生でトップ女優だった小倉みね子が朝、新橋演舞場に着くと、公演は中止になっていた。1936(昭和11)年2月26日、青年将校が決起した二・二六事件が起きていた。

 みね子は牛込弁天町に暮らす早大の小島利男に電話を入れた。4年生で春には卒業で会えなくなる。小島は「どこかで会いませんか」と誘った。

 みね子が本名の小島千鶴子で出した『小島利男と私 都の西北と松竹少女歌劇』(ベースボール・マガジン社)にある。

 後に結婚する2人は34年秋の早慶第1戦の夜に出会い、交際を深めていた。手紙をやりとりし、寄席や歌舞伎に行った。新宿・伊勢丹前で交番の巡査から「君たち、目立ちすぎますよ」と注意された。当時の東京六大学野球人気は相当で、リーグ史上初の3冠王にもなった小島は超有名選手。スター同士とあってゴシップ記事が載った。

 雪が降り、戒厳令が出たその日も神楽坂の「田原屋」で落ちあった。店内はがらんとしていた。

 「田原屋」は明治初めに牛鍋屋として開き、後に1階は高級果実を売るフルーツパーラー、2階は洋食レストランとなった。夏目漱石、永井荷風ら文人も多く通った。

 小島は卒業後、三菱鉱業(現三菱マテリアル)に就職し、福岡・直方の鉱山にいた。創設初年度のプロ野球は放っておかず、争奪戦でタイガースが契約。巨人代表・市岡忠男が「先に勧誘していた」と抗議し、代わりの二塁手を紹介することになった。大阪・北浜で相場師をしながらオール大阪にいた三原脩である。

 小島は早大時代同様に4番・二塁手を務めた。阪急との第1回定期戦に臨む前、みね子への手紙で<悲しいかな不肖四番打者で><当たらないけど四番だからつらいよ>と打ち明けている。

 小島の入団は監督が早大先輩として慕う森茂雄だった点が大きかった。8月14日に正式契約し入団してみると、森はすでに解任、監督には石本秀一が就いていた。松山商先輩として森を慕う景浦将と<すぐに同調して、石本監督と絶えず対立することになった>と松木謙治郎の『タイガースの生いたち』(恒文社)にある。翌37年春のリーグ戦中、森が監督に就いたイーグルスに移籍となった。タイガース在籍は1年にも満たない。

 みね子の大阪公演中、小島は甲子園から千日前の歌舞伎座楽屋口に迎え、よく道頓堀から遊覧船に乗った。<生涯を通じて、大阪って処も二人には思ひ出多い土地になる事でせう>と手紙が残る。幸せな日々だった。

 小島は3度の応召を経て、戦後はパシフィックで復帰。2リーグ分立後は西日本で監督兼選手を務め野球人生を閉じた。

 みね子は著書の「おわりに」で書いている。<半年ほどしか阪神のユニフォームは着られなかったのですが、それでも私はタイガースの小島だと思っています>。愛する夫の阪神への愛着を知っていた。=敬称略=(編集委員)

 《景浦は銀座で勧誘》同じ二・二六事件の日、東京・銀座の資生堂パーラーでは立教大予科に在学中の景浦将がタイガース初代監督の森茂雄、すでに入団を決めた若林忠志から勧誘を受けている。景浦は松山商先輩の森を慕っていた。紳士的な森は席上「入団しろ」とは言い切れず、自身が監督に就いたとだけ伝えた。代わって若林が自身の心情を話すなど口説いた。景浦は2日後に入団契約し、立教大を中退。草創期のチームを投打両面で支えた。

続きを表示

この記事のフォト

「名将かく語りき〜歴史を彩った勝負師たち〜」特集記事

「稲村亜美」特集記事

2018年12月13日のニュース