【コラム】西部謙司

東京五輪に反対しないアスリート

[ 2021年5月8日 00:00 ]

 新型コロナウイルスの感染拡大によって緊急事態宣言が延期される中、東京オリンピック・パラリンピックの開催が迫っている。

 そんな中、アスリートたちからの開催に反対する声は寡聞にして聞かない。アスリートたちが開催を希望するのは当たり前なのかもしれないが、ちょっと不思議でもある。

 プレミアリーグではキックオフ前に人種差別に抗議して片膝をつくポーズを全選手がとっている。CLでも行われていて、人種差別という社会問題に対してアスリートたちは明確な意思表示をしているのだ。

 感染症も今や全世界の社会問題といえる。しかし、五輪開催に関しては感染拡大の可能性を否定できないにもかかわらず、アスリートから中止を求める声はあがってこない。同じ社会問題なのにスルーされている。

 ウイルスの問題は社会生活に直結している。一定期間、全世界が誰にも会わずにいればウイルスはなくなる。人から人へ移って増殖するウイルスは人流を断たれたが最後、生き残る術はない。しかし、解決策はものすごく簡単なのに人間にはそれができない。さらに今回のウイルスが厄介なのは弱者をねらい撃ちしてくるところだろう。感染しても症状すら出ない人もいる一方で、老人や基礎疾患を持つ人々の生命を奪っていく。

 人々が普通に日常生活を送るだけで誰かの生命が失われるという事態。だから感染が広がったら日常生活を一部制限するしかないわけだ。スポーツイベントも日常の一部だから、感染が拡大すれば制約の対象にならざるをえない。

 今のところJリーグでもプロ野球でもクラスターが発生したという話を聞かない。それからすると五輪の競技を安全に行うことも可能なように思える。ただ、五輪は世界中からアスリートが集まるだけでなく、関係者や報道陣を含めると10万人が来日するという。さらに大会を手伝うボランティアもいる。それだけの人数と人流を完璧にコントロールするのは不可能に思われる。五輪に医療のリソースを割けば、一般市民へのしわ寄せもあるだろう。

 だとすれば、五輪を開催すれば感染は拡大する。少なくとも感染を抑制する方向には全く働かない。歓喜と熱狂の陰で、失われなくてすんだはずの命が失われるわけだ。

 社会はもともとそういうものだと割り切ることもできる。交通事故で多くの人命が失われようと車を廃絶しろという人はいない。何かが叶えば何かを失う。

 トップアスリートは実質的にプロだ。競技することで収入を得ている。サッカーも野球もゴルフもテニスも大きなイベントが開催されている。社会に認められた興行であり、多少の犠牲が出たとしても仕方がないと考えることもできる。

 ただ、公共の利益と天秤にかけたとき五輪開催の意義があるのかどうか。サッカー男子に関していえば、U-24の世界大会にそこまでの意義はないと思う。競技によっては開催が死活問題というケースもあるだろうが、サッカーはそうではない。なので、サッカー界から開催に疑問を呈する意見が全くといっていいほど聞こえてこないのは少し不思議に感じるところではある。(西部謙司=スポーツライター)

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