【内田雅也の広角追球】「鬼のタニケン」アマ球界の名将、谷口健次さん逝く 熱血指導に川上哲治氏も感心

[ 2023年5月5日 13:28 ]

全国優勝を果たし、谷口健次監督を胴上げする城東クラブの選手たち(1976年8月5日、横浜平和球場)
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 【内田雅也の広角追球】中学野球で全国優勝、高校野球で甲子園出場に導くなど、アマチュア野球の名将だった谷口健次さんが4日午後8時、致死性不整脈のため、大阪市内の病院で死去した。88歳だった。通夜、葬儀・告別式は家族葬で執り行う。

 和歌山県出身。桐蔭高―関西大卒業後、社会科教諭としてかつらぎ町立笠田中を皮切りに和歌山市内の中学校で野球指導に携わった。和歌山・城東中監督時代の1976(昭和51)年8月、中学軟式野球の日本一を決める第2回全日本少年軟式野球大会(横浜・平和球場=スポニチ後援)で優勝を果たした。

 厳しく、激しい指導で「鬼のタニケン」と呼ばれた。4番・二塁手で後に広島で首位打者も獲得した正田耕三氏(61)は「和歌山では知らない人がいない監督さんだった。グラウンドに水銀灯があり、毎晩10時まで練習でした」と振り返っている。

 NHKは決勝戦の模様を総合テレビで生中継した。解説はV9達成後、巨人監督を退いていた川上哲治氏(2013年他界)だった。後日、川上氏が先生役、城東中メンバーが生徒役となった少年野球教室が教育テレビで放送された。JR和歌山駅から同校まで優勝旗「若鷲(わかわし)旗」を先頭に凱旋(がいせん)パレードも行った。

 当時、川上氏は少年野球指導に熱心で全国を回っていた。基本に忠実で礼儀正しい城東中の野球に感心し、和歌山市の同校を訪れ、交流している。「努力」の色紙が贈られた。

 同大会は中体連とは別にクラブ単位で開催された全国大会。城東中は翌77年の第3回大会も連覇した。

 谷口さんは1985(昭和60)年から舞台を高校野球に移し、星林高監督に就いた。後にダイエー・ソフトバンク、巨人で活躍する小久保裕紀氏(51=現ソフトバンク2軍監督)を指導した。当時は投手だった小久保氏にランニングの重要性を説いた。谷口さんは「倒れるまで走れと言ったら、本当に倒れ込んだ」と、帰宅しない小久保氏を車で探し回った。小久保氏は谷口さんを恩師と慕い、侍ジャパン(日本代表)監督など指導者となってからも連絡を絶やさなかった。

 1990(平成2)年夏には箕島、市和歌山商(現市和歌山)などを破り、同校を夏32年ぶりの甲子園出場に導いた。初戦(2回戦)で中標津(北北海道)を破り、3回戦で山陽(広島)に敗れた。谷口さんは「生徒が力を合わせ、甲子園まで連れてきてくれた。自分の進んだ道に間違いはなかった。私は幸せ者だ」と感慨にふけった。

 星林監督時代に野球部長だったのが後の日本高校野球連盟(高野連)事務局長の竹中雅彦さん(2019年、64歳で他界)だった。竹中さんは「厳しいばかりでなくやさしさに満ちた方だった。球界での顔が広く、タニケンさんのおかげで私の人脈も広がった」と語っていた。

 93年限りで同校監督を退いた後は、帝塚山大監督、総監督や中学硬式野球の顧問などを務めた。晩年は球場で転倒し眼球破裂の重傷を負い、緑内障もあって失明した。

 次男で甲南大野球部監督の谷口純司さん(60)も父の影響で野球指導者の道を選んだ。「おだやかで安らかな最期でした。父の情熱や愛情は多くの教え子の心で生きていると思います」と静かに語った。  (編集委員)

 ◆内田 雅也(うちた・まさや) 1963(昭和38)年2月、和歌山市生まれ。和歌山・東中時代、城東中と対戦し谷口健次監督の熱血ぶりは肌で知る。次男・純司さんは桐蔭高野球部の1年後輩だった。

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