阪神ドラ6豊田 東海大相模&国際武道大で「心技体」の大切さ学び素質開花 度重なるケガ乗り越え

[ 2021年12月10日 05:30 ]

日立製作所・豊田
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 豊田寛が野球に触れるきっかけは、5学年上の兄・翔さんだった。試合での姿に影響を受け、小学校入学と同時に兄のいた戸塚アイアンボンドスに入団。ポジションも翔さんと同じ捕手で、憧れは当時ダイエー、マリナーズで活躍していた城島健司だった。ミットも同モデルを使った。

 名捕手に魅せられながら実力を伸ばし、6年時には横浜ベイスターズジュニアに選出。中学時代の戸塚シニアを経て、「スタンドでもいいので、甲子園に行きたい思い」から名門・東海大相模に進学した。

 当時監督で、今夏限りで退任した門馬敬治氏が回想した。

 「足もありましたし、キャッチャーとしての能力もあったが、他のポジションに移しても彼の持ってる能力は発揮できるんじゃないかと。豊田の場合は伸びしろを考えた」

 1年秋から外野手としてベンチ入りし、2年夏には中軸として甲子園にも出場。一方で、度重なるケガに苦しみ続けた。2年時の12月には腰を痛め、翌年の春先までリハビリ。「他の選手が練習する期間で、同じ練習ができない焦りがありました」。自らと向き合い、できることに取り組む意識を持ち続けた。校内にある坂を毎日夜になるまで自転車でこぎ続ける日々を過ごし、「ケガ明けに足が速くなった」と下半身の強化につなげた。

 門馬氏は「黙々と努力を重ねられる、純粋な選手。苦しんだものから目をそらさず、チームを忘れない。周りに認められるものを持っていた」と振り返る。4番で迎えた3年夏の甲子園では、関東第一との準決勝で左越え2ラン、仙台育英との決勝では4安打3打点の固め打ちで全国優勝に貢献した。

 門馬氏の元には寛の中学時代の担任から感謝の手紙が届いたという。「人から応援される選手、生徒であったということ。それが豊田寛の持ってるもので、それがうれしかった」。日本一を達成して高校を卒業。国際武道大で、もう一人の恩師と出会うことになる。

 実は高校2年の冬の時点で既に国際武道大への進学を決心していた。

 「岩井監督に声をかけてもらったのが一番大きかった。日立に進めたのも岩井監督のおかげ。言葉で言い表せないぐらいで、国際武道大に行けたから、今があるのかなって感じます」

 岩井美樹監督は今年66歳で、監督歴41年目。「右打者で踏み込んで逆方向に打てるのはそうそういない」。素質を見込まれ、1年春からレギュラーに抜てきされた。座右の銘とする「努力・忍耐・根性」も、岩井監督が常々口にする言葉だ。

 「門馬監督も同じことをおっしゃっていた。やっぱり、心技体の3つ全てが充実していないと野球でもいい結果は残せない。野球だけしっかりやっていても、私生活がダメだったらいけない…とよく言っていただいた」

 故障の多かった高校3年間を踏まえ、日々の練習姿勢から問われた。厳しい指導と期待に応えるようにリーグ戦で3度のベストナインに輝くなど、能力に磨きをかけていった。

 岩井監督のすすめもあって進んだ日立製作所では、PL学園専属トレーナー時代に「マエケン体操」を考案し、09~10年はロッテでも専属トレーナーを務めた荒木和樹トレーナーと、それまでの故障の多さに向き合った。「体を休める重要性を教えてもらった。トレーニングの組み方や、今日はどの部位を重点的にやるとなど…それまで考えてなかった。高校、大学と比べてケガの数は減ったと思います」。社会人の2年間でも成長を続け、プロへの切符をつかみ取った。即戦力としての期待を背負い、猛虎でも激戦区となる外野の定位置争いに殴り込みをかける。(阪井 日向)

 ◇豊田 寛(とよだ・ひろし)1997年(平9)4月28日生まれ、神奈川県出身の24歳。名瀬中では戸塚シニアに所属。東海大相模では中日・小笠原らと2度の甲子園出場を果たし、3年夏は日本一。国際武道大を経て、20年から日立製作所。1メートル77、85キロ。右投げ右打ち。

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